【趣味】スキンダイビング(素潜り)って楽しいのよ!!

 

hokusoemi.hatenablog.com

 前の記事で、川でのシュノーケリングを試したことを紹介しました。

 

それで、最後に見つけた白滝公園の淵にさっそく潜りに行ってきたのですよ。

 

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おー、きれいきれい。

でもね、実際のところファーウェイちゃんのカメラ、勝手にきれいな色に補正してくれてるけど、実際のところ前日に夕立が降ったせいか、前に来た時よりも濁って見えた。

 

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でも、鍾乳洞から湧水がわいているあたりには、ヤマメの姿も見れたから、これは淵に潜ればヤマメと一緒に泳げるのかも??

 

と、期待して潜ってみたのよ。

 

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ぬーん、やっぱりあんまり視界はよろしくないようで。

どうしても、土が舞って透明度を下げてしまうし、日影が多いので水中がどうしても暗くなってしまう。

 

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でも、おぼろげだけど何かの大きな魚の大群に出会えた。

瞬く間にいなくなってほとんど写真は撮れなかったけど。

というか、川魚俊敏すぎ(笑)。

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最初はブラックバスかと思ったけど、違うみたい。鯉?にしては、俊敏だったような気もするし、形もシュッとしている。

 

 

という感じで、魚に出会うことはできたものの、視界が悪く、やっぱり水が冷たいので20分くらいで退散。

 

でもね、私思ったんです。

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潜るのってすっげー楽しいな!

ということに。

 

私は、小学6年生のときに買った、淡水魚の水中写真の図鑑を読んでから、ずっと水中の世界にあこがれを持ってました。

 

社会人になり、技術の発展も合わさり、水中カメラが手軽に手に入るようになってからこういう遊びを始めたわけです。

 

その中で、必然的に潜水スキルを身に着けたのですが、これがほんとに気持ちいいのよ。

 

水中深いところから、水面を見上げると、ちょうどいつも住んでいる部屋の天井くらいの高さに水面があって、それが光を反射してキラキラ光っているわけです。

 

その、水中深くにいるときの何とも言えない心地よさ、そして感覚が研ぎ澄まされるような水中の緊張感、陸上にはない静かな水中の世界。

 

ジャックナイフで、水面から深くに体を沈めるときは、なんとかくナウシカ腐海の底のシーンを思い出す。

 

それくらい、水中に潜っていくとき、水中に沈んでいるときというのは穏やかな気持ちになる。 

 

そういうわけで、水中撮影とかなしで、ただ潜るだけでも十分楽しい。

 

しかも、おまけになぜか潜ってから1週間くらいはすこぶる体調が良くなる。いつもきれいな海に潜っているせいか、心なしか肌つやも良くなる気がするくらい。

 

やっぱり、多少水中撮影にマンネリを感じたとしても、潜ることは続けていきたいなと思ったところでした。

 

もちろん、ゆっくり水中に潜っていられるスキューバも素晴らしいけど、本当にそれと比べることができないけど、スキンダイビングも楽しいよと。

 

【調査】川辺川でシュノーケリングはできるか?

 

hokusoemi.hatenablog.com

 

前にこんな記事を書いた。

 

読み返したが、なかなか良い記事だ。

要は、

 

①まったりだらだらすることも休憩の意味では必要なことなのだから、自分の人生のタスクの進捗とバランスを取りながらだらだらすればよい。

②具体的に、タスクとだらだらのバランスを評価するために、平日1アクション分、休日3アクション分の時間を持っているとして、そのうち自分がどれだけダラダラに時間を消費しているかを可視化すること。

などを提言している。全く実行できていないが。

 

 

さて、今週の土日もそんなダラダラしてしまいがちな用事のない週末だった。

 

しかし、このままでいいのかという、わずかな危機感が私の体を起き上がらせたのだ。

 

ちょっと前であれば、夏の晴れた日は海にシュノーケリングに行っていたものだが、最近は片道3時間かけて天草の西の果てまで車を運転する情熱が失われていた。

 

もうちょっと近場でシュノーケリングできないものだろうか。

 

ということで、熊本最高の清流とうたわれる五木村の川辺川に、車で2時間弱かけて出かけてきたのである。

 

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今日選んだのはこのポイント。なかなかの透明度だし、流れも浅く緩やかなので、事故も起こりくそうだ。

上の写真では、バンジージャンプが行われていた。私がいた2時間ほどの間に数人のジャンパーがいた。

 

1人で川にシュノーケリングしに来るええ年のおっさんと、ただただスリルを求めて端から飛び降りる人たちのどちらが狂っているだろうか?

 

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うーん、確かにきれいだけど想像していたほどの透明度はないかな?
どうしても流れがあるせいで、砂が舞ってしまうようだ。

そして、川魚君、君たちはほんとに地味だ笑。

 

私はもともと海よりも川派なので、当然川魚も好きなのだが、いかんせん写真にすると地味なのだよ。

 

流れを読み、流れに遊ぶ姿を眺めるているととても見とれるようなのだけど、やっぱり地味なのだよ。

 

 

甲乙つけるつもりはないが、半月前に私が潜った天草の海の写真もついでに載せておく。 

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やっぱりこっちのほうが映えるのよねー。

 

まあでも、こっちもやっぱり天草より近いし、淡水だから後のべたつきも少ないし、思ったほど水も冷たすぎないし、ありっちゃありやな。

 

そういうわけで、さて帰るかと思ったら、一つ前の記事の通りメガネを見失ってしまったわけ。

1時間探したと書いたけど、実はあまりに見つからなかったので一度家に帰って、別のメガネを装着して探してようやく見つかったんだよね。

 

だから、この川辺川にも2回来てるのよ。

 

2回目は川に入らなかったから、せっかくだからと水切りを練習してきた。

 

水辺の多い環境に生まれ育ったから、これは得意なのよね。

 

100投くらい投げて、何となくおっさんの体でどう投げればいいのかをつかんだ。

 

結構いい運動になったかもしれない。何より、物を思いっきりぶん投げるのはストレス解消になる。

水面をすべるように石を飛ばせたときは、何とも言えない爽快感があった。

 

 

そうそう、帰りにいい発見があった。

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白滝公園。ここには実は「滝」はない。石灰岩の巨大な白壁を滝と例えているのだ。

 

さっきよりもかなり上流で、水量が少ないので泳げないだろうと最初からスルーしていた。だが、実際にはかなり深い淵があり、かなり潜り甲斐がありそうだ。

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着いたのがすでに夕方で、暗いせいでそんなに奇麗に見えないが、実際は最初のポイントよりも透明度が高い。

 

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その透明度をコミットしているのが、近くの鍾乳洞から流れ出る湧水である。

写真に見える通り、ヤマメと思わしき水玉模様の魚もいた。

 

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五木村特有の、鬼のようにしっかりした施設で安心感がある。

 

というか、もっとPRすれば一大観光地になりうると思うのだが。

 

 

 

かくして、私が本来であればダラダラしていただけのはずの週末で、遊び場の調査と適度な運動ができた。

 

すっかり忘れていたけど、タスクとダラダラのバランス管理も今後はやっていきたい。

 

いい週末だった。

【難問】メガネを求めよ。

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<問1>
メガネを求めよ。(1998,京都大)
 
 
<解説>
例えば、メガネのような無機的な物体を、同じく無機的な物体である石ころがたくさん転がっている、河原のような場所に置いたとする。

もし、その状態で一瞬でも目を離すとたちまち周りの風景と同化し、再び見つけることが困難な状態になる。

ましては、「メガネを探す」、ということは現在探し手は裸眼であることが想定され、その場合ますますメガネを見つけることが困難となる。

非常にシンプルであるが、立体的なものの見方を問われる難問であるとして、その年の受験生の間で話題となった。
 
 
<参考>
出題者は、たった一瞬目を離したばかりに、メガネを探して河原を1時間以上さまようことになった。
河原に小物を直接置いてはいけない。絶対にだ。

ネット廃人はネット断ちすることができるか?

スマホを変えることにした。

なんでも、次世代のスマホsimカードがさらに小さいらしく、乗り換えるためにはsimカードを作り替えなければならないそうだ。

私は海外旅行で現地のsimカードを買うようにしているので、これってそういう海外の現地simと互換性あるのかねとか思いながらも、どうもsimカードの小型化は全体的なトレンドのようであるので、小型simのスマホに乗り換えることに。

で、新しいsimカードの作成を依頼したら、その翌日に急に今のスマホsimカードが無効化された。

まだ、新しいスマホsimカードが届いていないのに、だ。


と、いうことはそれが届くまで、ネットなしの生活を送らなければならない。

どうせ荷物はいつも通り、時間帯に家にいなくて不在票になるパターンが見えている。

これは、しばらくネットなしだぞと。

全く、事前告知くらいしてほしいものだ。

もう彼これ10年くらいは、快適な速度のネット環境下に生きてきた私としては、なかなか珍しい体験になりそうだ。

もはやネットは、私の第2の脳といっても過言じゃないくらい、生活の、そして体の一部となっているのだ。

果たしてネットなしにこの膨大な時間を過ごすことができるのであろうか?


それは、まるで、ラマダーンの修行のようだ。


さて、いざネットなしの生活をしてみると、それはそれで気づきが多いものだ。

まず、気持ちがとても落ち着くということに気が付いた。
まるで、静かな海辺に立っているかのような、穏やかな気持ちになれる。


普段、いかにネットから雑念を受け取っているかということだ。


2chのコピペブログ、twitterfacebookといった普段のネットサーフィンのルートには思い起こせば、私の脳みそをもやもやさせるような記事も少なくない(その記事が正しいかどうかの問題ではない。ただ私にとって素直に受け入れることができるかどうかが問題なのである。)。

もちろん、面白い記事や勉強になる記事も数多く、それを楽しみにしてネットサーフィンに興じているのはおそらく間違いない。


ただ、同時にそれだけ多くの雑念も、インターネットから体内に取り込んでいるのだ(最近やたらと目障りなターゲット広告も、私の脳みそにノイズを与えているのかもしれない)。


あと一つ気づいたことは、日ごろぶち当たる簡単なトラブルや、ふと思いついた疑問のうちかなり多くを、Google検索で解決しようとしていることである。

さっき、バドミントン帰りにクールダウンがてら、近くのコンビニに夜食を買いに行ったときのことだ。

今日のハードな試合に、私の足は限界を迎えていたらしく、コンビニの前の道路を渡る横断歩道のど真ん中で、足を攣ってしまったのだ。

しかも、普段よくあるふくらはぎのこむら返りではなく、むこうずねの筋肉が攣ってしまったのだ。

何とか渡り切った後、歩道の淵の縁石に座って痛みに耐える。

始めて攣る場所なので、痛みも相当のものである。

しかも、むこうずねなんて、どうやってストレッチすればいいんだ…。

誰かこの苦痛から解放してくれ!

私はその時頭の中に3つの言葉が浮かんだ

「むこうずね 攣ったとき 伸ばし方」

しまった、ネットないじゃん!!

結局、いろいろ苦しみながらも、いろんな方向に足を曲げることを試してみて、痛みが緩和されるような伸ばし方を自力で発見することができた。


が、やはり日ごろトラブルに遭遇した時、頻繁にGoogle先生に助けを求めているのだ。


あと、帰り道にもふと、疑問が思いつき、それを解決するような検索ワードが頭の中に浮かんだが、パソコンを開くまでにその疑問が何だったかも忘れてしまった。

その疑問を解決していれば、思わぬ知見が得られたかもしれないのに、ちょっともったいない気分だ。


・・・という具合に、まだほんの半日だが、日常にネットがないというだけで、ちょっとした行動の変化がたくさんあった。

ネットがない状態は、私がネットのないスマホのように機能停止してしまうのではないかとも大げさに思っていたのだが、案外そうでもないし。

ただネットがないというだけで、普通に暮らしているのが、お寺で生活しているかのような、質素ですがすがしいものに感じられる。

もちろんこの情報化が進んだご時世に、ネット断ちのすべてがプラスに働く、ということはあり得ないが、たまにネット断ちすることで、時間と脳みその使い方が改善できるのではないかと思った。
(ほかにもちょっとした隙間時間に、スマホで時間をつぶせないので、家の家事や部屋の片づけがはかどるというプラス効果もあるみたいだ)。

新しいスマホが届くまで、ネット断ちが自分に脳みそと生活にどう働くか、しばし実験である。

 

 

おっさんになると新しい音楽を脳みそが受け付けなくなる説

30歳近くなってくると、新しい音楽を脳みそが受け付けなくなる説。

 

私がその例の一つ。

 

大学生の時は、音楽CDを大量にレンタルしてきてはパソコンに落としていたものだが、社会人になってみるとそれもぱったり。

 

ただ、このまま趣味の一つがまた一つ失われるのも悲しいもので、久々にTUTAYAにCDを借りに行ってきた。

 

久しぶりすぎてカードもなくしていたし、TUTAYAにも自動精算機が導入されていることも知らなかった。

 

久しぶりに音楽を聞いてみると、なかなか悪くないもんだ。

 

音楽聞きたい気持ちを高めるのを手助けしてくれたよねづけんしに感謝したい。

 

脳みそが新しい音楽を受け付けなくなっているのではなく、そもそも仕事をしていることで新しい音楽を聴くのに割くリソースがなくなっているだけなんじゃなかろうか?

 

 

そうそう、最近、友達と交代でシェアしていたノートパソコンから、自分用のパソコンに切り替えてより自由度の高い運用ができるようになった。

 

自分用のパソコンを持つと、2chのコピペブログを漫然と眺めてみたりと、堕落した人生を加速させてしまうのではないかと思ったが、案外そうもならなかった。

 

というか、スマホだけでも十二分に堕落しつくしていたのである。パソコンのほうが画面を見やすいのと、文章を打ち込んだりするのも手軽なのと、効率よく堕落できるので同じ堕落ならパソコン使ったほうがいい。

 

ふと、思いついてまじめなことをしよう(例えばブログを書いたり、マクロの勉強をしようとしたり)とすれば、がぜんパソコンのほうが優れているので、パソコンのほうが堕落からの復活するにはいいと思う。

 

スマホの台頭により、パソコンはいらなくなったかなと思っていたけど、そうじゃなかったよ。VIVAパソコン。

バドミントンに愛を…(なぜ運動音痴がスポーツをするのか?)

前にこういう記事を書いた。 

hokusoemi.hatenablog.com

 なんか、テンション上がって書いたクソ記事である。

読み返してみても、「で?」という感じである。

 

でも、この記事の中でバドミントンをしていたことが、一見関係のないような様々な出会いにつながったようなことを書いているが、バドミントンというスポーツからいろんなものをもらったということは、私の中でとても重要な事項である。

 

今日は運動音痴が、わざわざ苦手分野であるスポーツに挑戦したことがどういう意味を持ったかということをちょっと考えてみたい。

 

もし、仮に中学や、高校に進学するときに、運動部に入るべきかどうかを迷っている中高生がいるなら、ぜひ伝えたいことだ。

 

この記事を書いている私は、現在32歳であり、自分の怠惰な性格を考慮すると、正直バドミントンの実力面での成長はほとんど望めないような状態である(怠惰な性格を直せという意見は認めない。怠惰なので。)。

仕事から解放された貴重な時間をバドミントンに割くことは、今の私にとってどれだけの価値があるだろうか(おまけにバドミントンをしたあと2,3日は疲労と筋肉痛を引きずることになる)。

 

せっかくなら、続けたいという気持ちもあるが、正直ちょっと飽きてしまっているのも実のところ。

 

でも、これまでバドミントンにいろんなものをもらったのは本当だ。

そこで、今一度私がバドミントンから何をもらったのか、ちょっと振り返ってみようと思う。

 

バドミントンを始めたのは、小学6年生のころである。

 

基本的に、スポーツがからきしダメな私だが、野球やサッカーといった、ボールや人との接触に恐怖感のないバドミントンならできるんじゃないか、あるいは、スポーツ人口の少ないバドミントンなら、周りの運動できる連中から感じるプレッシャーも少なく、和気あいあいとプレーできるのではないか、というのが始めたきっかけである。

 

ほかにも、体育でやった時に思ったより楽しかったから、という理由もあったが、我ながら、情けないばかりだ。

 

それでも、本質的に運動が苦手なのは、当時の自分も十分理解していたはずなので、ヘタレながらも、苦手分野に挑戦しようとした意気込みは少しは褒めてもいいと思う。

 

そのあたり、当時の私にどういう感情の機微があったのかはもはや思い出せないが、やっぱりバドミントンを舐めていたのだろう。

 

 

ただ、その判断は本当に自分の人生にプラスに働いたと思う。

 

中学以降も当然ヘタレの私は、少しなりとも周囲に対するアドバンテージのある、バドミントン部を選択した。

新しいことに挑戦して、その中でコンプレックスを積み重ねるのはまっぴらゴメンだったのである。

 

しかし、まだ黎明期であり、クラブチームなどもほとんどなかった当時のバドミントン事情においては、そのわずかなアドバンテージはかなり役に立った。

 

運動部のリーダーは、たとえどんなにリーダーシップが強くても、最低限度の実力を持たなければさすがに務まらないが、私はその最低限度の実力を持つに足りたのである。

 

結果、中学、高校、大学(サークル)と、私は副キャプやキャプテンを歴任することになる。

当然、私がキャプテンになるような弱小環境(特に中学、高校)だったので、中学、高校においては顧問や指導者は実質不在であった。

もちろん、精神的に未熟な私は、組織の運営において今思い出しても痛ましい失敗を繰り返すのだが、それも含めてよい経験だったといえるし、中高において、数々の失敗を繰り返した後の大学のサークル運営はなかなか悪いものではなかったのではないかと思う。

 

人とのつながりにおいても、バドミントンを通じて直接仲良くなったりした人はもう数百人というレベル(大学のサークルだけで軽く150人くらいいる)だし、先に紹介した過去の記事のように、バドミントンをしていたことが回りまわって、交友関係の輪を広げた例もある。

 

また、バドミントンをやることによる直接的なメリットもあった。

 

特に、メンタルのマネジメントに関してはすごく役に立ったと思う。

ほかのスポーツをよく知らないから、相対的な話はできないが、バドミントンはかなりメンタルの影響を受けるスポーツだ。

自分のメンタルの調子の良しあしが、普段のたゆまぬ練習の結果を軽く覆したりする。

感覚的には、客観的に見て1枚上の実力の相手でも、こちらのメンタル状況次第では勝ててしまう(いわゆるゾーンというやつか)。

逆に、自分の気持ちが弱気になったりすると、普段だったら負けないような相手にも簡単に負けてしまう。

当然、その両者がタイミングよく合わさると、大どんでん返しすらありうる。

 

何度も言うが、私はヘタレなので、バドミントンを始めた頃には、相手が少しでもチャラい態度や、やる気のなさげな態度を見せると、途端にビビったり、こちらもやる気をなくしてしまったりと、調子を崩してしまっていた。もちろん、緊張もめっちゃする。

 

でも、まあそれも長く続けてくると、そのメンタルのマネジメントまで含めて実力なので、具体的にどうメンタルをコントロールするかを考えるようになった。

 

チャラい感じのプレイヤーは特に苦手だったが、何度もこのようなタイプを相手を数る間に、その特徴を分析することができた。

メンタルコントロールの一例として紹介したい。

 

この手のタイプのプレイヤーの特徴として、

①とても運動神経がよく、自分に自信を持っている。

②だから、大胆なプレイや行動をとることができる。

 

ことが前提にある。

だから、逆に一度何らかのきっかけで屈辱を与えてやれば、その自信の前提が崩れ、ふてくされて集中力を切らす場合が多い。と私は分析している。

 

逆に自己肯定感の低いヘタレは、バドミントンにおいてしてやられたときに、崩れ去るプライドがないので、その点ではメンタルは安定しているともいえると思う。

 

これらから、ラリーの間で何とかして、相手の癖を読み、「残念お見通しだ」とばかりに相手の好きなパターンを打ち破ってやるのだ。

 

もちろん、それに成功したら、オーバーリアクションで喜んで、満面の笑みで悔しそうな相手の顔を覗き込むことを忘れない。

 

まあ、なんちゃいえばメンタル攻撃だ。そして、このメンタル攻撃は、効いてるか効いてないかはあんまり関係ない。

メンタル攻撃を仕掛けることで、自分がメンタル上優位にあると思い込むことで、自分のメンタルを安定させることが重要なのだ。結局、確実にコントロールできるのは、自分だけという話。

 

これが日常においてどう役に立っているかというと、まずメンタルの大切さを知っていること自体が、とても重要だ。

 

日ごろから、失敗したり、怒られたりして落ち込むことも多いが、基本的に失敗したことに対してきちんと反省することができているのであれば、あとは落ち込んでいるメリットは何一つないのだ。

 

失敗に対する事後策をまとめ終わったら、「失敗したけど、どうせほかの人も失敗するしな」とか、「普段からプラスアルファで頑張ってるから、多少の失敗は問題ないだろ」とか「自分を叱ったりした相手を脳内でバドミントンでぼこぼこにしたり」とか。

 

実力差以外のあらゆる条件が、みな全く同じであるバドミントンコートの上に人間関係を並べてみると、結構落ち着くことも多い。

 

 

まあ、こういう具合に私はバドミントンに大変お世話になったのだが、今後この人生の恩人のバドミントンとどう向き合おうか。

 

今日は職場関係者でバドミントンをしてきたのだが、なかなか楽しかった。相変わらずへたくそだったが。

 

でも、それだけじゃだめだ。人生の生産性を高めるために、まだ恩人のバドミントンから得られるものを搾り取らなければならない。

 

ということで、今後はまだバドミントンでやれていないことをできる限り試してみようと思う(走り込み以外で)。

 

この間は、初めて自分のプレーを動画に収めた。絶対なにか効果があるとは思ったが、ちょっと恥ずかしいと思ってこれまでやったことがなかったのだ。

 

あとは、プレーの分析をしようと思う。

自分の得意なコース、苦手なコース、あきらかに得点に結びついていないプレー、逆に案外効いているプレーなどを分析することができれば、まだ伸びしろはあるはず。

 

面白いのが、そう思ってプレーの記録をするアプリとかを探そうと思ったのだが、Ipadでのみ使えるアプリ1つを除いて、実用的そうなものはなかった。

 

結構、作ろうと思えば簡単にできるはずなのにだ。

そういうアプリは、現在クラブチームなどと組んで開発中だとのニュース記事もあった。

 

こういうのって、たぶん一番先に使いやすいものを思いつけば、それなりに収益につながったりもするんじゃないだろうか?

もうちょっと発展させて、ランニングアプリのように、SNSにして世界中のプレイヤーデータを集めて、クラスタリングしたり、プレイスタイルごとに特長や弱点を見つけ出したり。

 

まだバドミントンはまだ私に何かを、与えてくれるみたいだ。

 

明日もまた、筋肉痛だろうな。

 

LGBTの人は有能な人が多い説

LGBTってなんじゃい!


LGBTとは、性的少数者の総称を言います。 「レズビアン(女性同性愛者)」、「ゲイ(男性同性愛者)」、「バイセクシュアル(両性愛者)」、「トランスジェンダー(性別越境、性別違和)の頭文字をとって名付けられました。 とくに、トランスジェンダーの概念は幅広く、心の性別と体の性別が一致しない方は、FTM(Female To Male=女性から男性)やMTF(Male To Female=男性から女性)と呼ばれ、心の性別がなく、無性・中性として生きている方は、FTX(Female To X)やMTX(Male To X)と、細かく分類されます。 これらの呼称は、自らのことをポジティブに語る用語として北米・ヨーロッパで生まれ、現在では世界中で使われています。

知っておくべきLGBTの基礎知識!日本での現状や海外の制度

 

と、このくらいの知識はあったのだけど、ちょっと最近気になることがあった。

 

と、いうのも、ゲーム理論から考える社会の全体最適について、めちゃくちゃわかりやすいシミュレーションゲームを見つけたんだけど。

ncase.me

 

それが、あまりに素晴らしかったので(これについても、そのうち一つ記事を作りたいと思う)、作者はどんな人かなーって思って調べてたのね。

 

everipedia.org

 

そしたら、シンガポール出身の25歳の若者、そしてLGBTなんだって。

 

ゲーム理論やらの相互作用から来るカオス理論についてが専門であることもあってか、もし自分がLGBTであることを打ち明けるためのシミュレーションゲームを開発したことでも有名な人物っぽい。

 

ほー、なるほどね。

 

これは私のこれまでの経験論で、まだ一般化するにはちょっと検証不足かもしれないけど、ひょっとしてLGBTの人ら、って一般のそれ以外の男性・女性よりもより高度な視点を持つ可能性があるんじゃないかと思ったのよ。

 

今まで、私が知っているだけでLGBTの人に5人あったことがあったのだけど、そのうち2人は卓越した知性を持っていた。

 

一人は、仕事で付き合いがあった人物で、私よりもだいぶ年上だったけど、とある分野ではもう何年も最先端の見識を持った人物だった。

 

あと一人は、私が台湾に旅行に行ったときにあった帰国子女の日本人で、たまたま台湾人と中国人と、その彼と私とでテーブルを囲む会があったのだが、彼の話もとても面白かった。
日本ではだいぶ苦しむことも多かったみたいだけど、そのことが彼の精神性をより高めた可能性もあるのではないかと感じた。

 

それにこのNicky Case氏も加えると、なんだろう。

私の考えに影響を与えるほど、素晴らしい人物のうち、LGBTの割合が相対的に高いような気がするのだ。


LGBTの割合は10%くらいのようだが、実際にそれをカミングアウトできているのは半分もいないのではないだろうか?

 

今まで、私の考えに影響を与えた人物って、うーん。10人いるだろうか?

 

まあ、それくらいの中に2人くらいはLGBTがいることになるのだ。

 

 

で、考えた。

 

そもそも、LGBTって、圧倒的に生物的に不利だと思うわけ。

だって、たぶん、彼ら子供産むことができない人が多いでしょ?

遺伝子を残すっていう意味において、生物学的に不利だってこと。

 

 

でも、その遺伝学的に不利なLGBTが人間社会の10%もいるってことは、これ彼らには生物学を超え、人間の社会学的な意味合いで、重要な存在価値があるってことなんじゃないかな?

 

生物として、男と女に役割分担することは、今の脊椎動物では合理的なこととされている。

その一方で、人間においては性別が生み出す思考的バイアスが、いろんなイノベーションを阻害していることも多々あると思う。

 

あんまり具体的な例えが思いつかず、申し訳ないが。皆さんも思うことは多いだろう。

 

「これだから男は」「これだから女は」

 

それらを超越して、新たな概念を生み出しうる存在として、LGBTの人々がいるんじゃないかなと思う。

 

また、LGBTとしての苦悩を味わうなかで、自分の中の精神性が高められる側面もあるのではないだろうか??

 

で、なぜ今更そんなことを急に書き起こしているかというと、さっき気になってLGBTについて調べたところ、LGBTでいろいろ調べてると、LGBT市場をターゲットとしたビジネスの話が結構出てくる。

 

実のところ、LGBTが10%もいるってのは、正確な統計じゃないんじゃないかと疑っていた自分が今まではいたのだが、

 

自由経済が無視できないほどの存在感がLGBTにはある、ということはこれは本当にそれくらいの割合がいるのではないか?

 

と、思ったからだ。

 

残念なことに、私はコテコテの男性タイプで、しばしば女性的な柔軟な思考にあこがれることがある。

 

その一方で、男性的な論理的思考能力には、結構自信がある笑

だから、今の私はそれはそれでいいと思うのだけど。

 

それらを具有する、優れた人物にこれからも出会うことがあるといいなー、ってぼんやりと思いました。