晩夏のソチ・モスクワツアー(H30.9.14-20) その8 モスクワ大学・コローメンスコエの主の昇天教会
さて、ついに最終日となる6日目。
この日も、朝早くから行動開始し、スターリン7姉妹のひとつモスクワ大学へ!
モスクワ大学のカッコいいところは時計台の一つが、よく見ると時計じゃなくて気圧計になっているところ。インテリっぽい
ここもまぁ、でかい!すごい!
雀が丘展望台を降りて、白樺の森を抜け。
その後、ホストの奥さんと合流し、
モスクワ郊外にあるコローメンスコエの主の昇天教会へ。
これまた敷地が広い!
広場を抜け、樹園地を抜け、森を抜け、また広場を抜けようやくたどり着きました。
モスクワにいる間とても天気が良かったんですが、特にこの日は天気が良く最高の散歩になりました。
1532年ヴァシリー3世がかの有名なイワン4世(雷帝)の誕生を祝って建てたものだそうで。
この公園には樹園地があり、ちょうどリンゴがなっていました。
ホストの奥さんに促されて落ちてるものを拾って食べてみたら、これがおいしい!
リンゴをかじりながら、旅行最後の観光を満喫しました。
と、こんな感じでモスクワの2泊3日もあっという間に過ぎ、帰郷の途に就きました。
ホストの奥さんはモスクワまで付き添ってくれて、車の手配をしてくれたり、赤の広場の美術館や、コローメンスコエを案内してくれました。
本当にこの旅行を密度ある最高のものにしてくれたホストファミリーには改めて、感謝感謝感謝です。
旅行好きの夫婦はきっとまた日本に来てくれるものだと思う。その時はぜひ、日本を案内してあげたい。
はやくそんな日が来てほしいものだ。
多分、もう日本人はロシアには簡単に行けないだろうけども、日本人がいかないからこそ面白い発見があると思う。自分の発見や体験を自分の頭のなかだけにしまっておくのはもったいないなと、思い今更ながら記憶を掘り起こして記事を執筆した次第です。
晩夏のソチ・モスクワツアー(H30.9.14-20) その7 赤の広場
さて、あれこれあってモスクワの中心部。赤の広場にたどり着きます。
にしても、これがまぁでかいの!この広場だけでも相当デカいけど、そこに着くまでも相当の距離があるし見どころもある。
で、広場中央に立って周りを見渡しますと、後ろから順に右回りにこんな感じ。
この白いのはデパート(グム)です。なかでアイスを食べました。
有名なワシリィ聖堂
この近くにレーニン廟もあります(今回はパス)。
そう、広場の奥の方に川にせり出した展望ブリッジがありましてそこからの景色がとてもきれいでした。
そしてここからは、有料ゾーンの写真。
もうね、建物が多すぎて一つひとつの能書きを覚えることができんと(笑)
でも、一つひとつすばらしくでかくて美しかったです(小学生並みの感想)
あとは、エターナルブレイズとか
衛兵の交代式とか
夕暮れの赤の広場とか
夜の赤の広場とか
そう、昼過ぎから美術館・武器庫に行ったり、食事に行ったりと一日中赤の広場をウロチョロしてた。
結果、その日だけで6万歩近く歩いてたことに(笑)
もう流石にくたびれ果ててその日は、マックで晩飯をすますことに。
宿はこちら、赤の広場から結構近い、ブラボーなホステル、ホステルブラボーさん。
そして、旅は最終日に…。
晩夏のソチ・モスクワツアー(H30.9.14-20) その6 モスクワ 共産主義時代の遺構をめぐる。
かくして、モスクワに降り立った我々。
夜のとばりのなか、乗り込んだ車は大都会を駆け抜けていきます。
ちなみに、これはスターリンの7姉妹と言われる有名な建築物の一つ、かつてはウクライナという名前のホテルだったそうな。
今日の宿は、ホストの奥さんもお勧めのICON Hostelという摩天楼のなかにあるホステルに泊まった。
超絶都会的なビルのなかのホステルなので、お値段いかばかりかと思ったが、1泊3000円ほどでとてもリーゾナブル。
窓からの景色も素晴らしいし、内装もとても素敵だ(写真はなし)。
お隣のねじれビル。
その日はビルのなかのバーガーキングで食事をとってさっさと休むことに。
して、5日目。
まずは、近所にあるロシア外務省まで。こちらもスターリン7姉妹の一つに数えられる。
遠くから見てちょっとヤバいデカさだが、近くでみてさらにびっくりするデカさ。
後ろを振り返れば昨日泊まった摩天楼がそびえたっており、2つの巨大な建物が対比できる。
つづいて、こちらも有名なキエフスカヤ駅。まるでホテルや美術館の様。
余りの美しさに2時間ほど、カメラを片手にうろついてしまった。これがただの地下鉄駅だとはとても思い難い。
そして、一通り芸術作品を見て回って気づいたのが、これらの作品が描こうとしているのは、共産主義の理想であると。
清く、正しく、頼れるリーダーが国家の繁栄を導き、国民は与えらえた仕事を美しく営みながら日々を穏やかに過ごしていく。
今の私たちが共産主義の理想をいくら説かれても納得できないだろうが、なるほどそういう意味だったのか。とこれらの芸術を見ていると理解できる。
その一つ一つは感動的に美しいのであるが、実際のところ理想と違い人間の心は弱く、リーダーは正しい判断ができずに猜疑心の塊となり、多くの国民はただ与えられただけの仕事にマンネリを感じることとなった。
時代を経て、その共産主義の理想郷が描かれる地下鉄を、資本主義に生きる人々が足早に行き来するというアートが出来あがっているのだ。
ちなみに、モスクワの地下鉄はめちゃくちゃ深いところを走っている。下りのエスカレータは高所恐怖症にとってはかなりキツイ。
一説によると、これは将来の核戦争に備えたシェルター兼防衛施設の役割も期待していたらしい。
あと、地下鉄について少し話すと、確か1日乗車券がお安く購入できるので、ぜひそれを購入したほうがいい。モスクワの地下鉄網は東京に次いで発達しているそうで、旅行中の移動にもかなり役に立った。
・・・が、一つ注意事項があって、めちゃくちゃドアが閉まるのが早い。そして締まるのが速い。そして、遠慮なく締まる。
一度、乗り遅れそうなタイミングで無理やり乗ろうとしたら、遠慮なく挟まれて少し痛かった。
友人曰く、その時の乗客は我々を見てクレイジー…みたいな驚いた様子だったそうな。いや、旅行ではぐれると大変なことになるので、あのときはしょうがなかったんや。
日本の地下鉄のように優しくないので、注意されたし。
あ、そういえばお客さんで、狐を首に巻くみたいな感じでのっけてるお客さんもいたな(笑)
さて、ところ変わって、高級スーパーのエリセエフスキー。
有名な観光名所だったが、こちらは2021にコロナ禍の影響もあり閉店となったそうだ。残念。
あの時いっておいてよかったな。
そうそう、あと「アリョンカ」という女の子がパッケージの有名なチョコレートがあるんだが、このアリョンカの専門店がモスクワにもあるので、お土産を買いたい人は是非訪れてほしい。
モスクワで定番らしいチェーン店「ムームー」で昼食をいただく(NHKのロシア語講座で紹介していて気になっていた。)。
食堂形式で食べたいものを取っていって、まとめて会計するシステム。牛柄のスープ皿がかわいい。自分の食べたいものをピンポイントで選べるので、いろんなものを食べたい旅行者にはありがたい。
そう、この時点でまで昼食時間なのだ。この日の活動量は半端ではなく、記事もここで一度分割したい。
晩夏のソチ・モスクワツアー(H30.9.14-20) その5 カフカスの山
旅行4日目
この日はカフカスの山へ。
道中の碑文。カフカス山脈は1864年のカフカス戦争や、第2次世界大戦の対ドイツ戦で天然の要害として機能したのでしょうか。
あと、やっぱり犬がいた。
山のなかを進むと、リゾート地が広がる。
ここから標高2300m超のローザピークまで、長大なロープウェイが続いている。途中区間わざと降りて登山気分を味わいながら頂上へ。
このロープウェイ、長さが半端ではない。
どんどん標高が上がっていくので、植物相が変わっていくのがよくわかる。
はじめは緑深い森だったのが、
徐々に低木になり、
やがて森林限界を超え、灌木しか生えなくなり、
山頂には荒涼とした風景が広がっていた。
あと、山頂ならではのいかれた遊びもあった。
山頂なので、風も強いし、天気もすぐ変わる。怖すぎでしょ。
山頂にはたくさんの観光客がいた。
そのうち、一人デカデカと「Россия」と書かれたセーターを着たおじさんから声をかけられた。
「俺がプーチン、君はシンゾーだ」みたいなことを言いながら、記念写真を撮りたがっていたので、一緒に写真を撮ってきた。
アジア系の観光客は大体中国人なのに、よく日本人だと分かったものだ。なにか、日本が好きな理由がある人だったのかもしれないが、とりあえずほっこりした。
さて、ロープウェイの下り。
これまた高所恐怖症には応えるものだったけど、本当にすごいロープウェイだった。
これをスキーで下ろうとすれば一体何kmのコースになるんだろうか。
はてさて、こんな感じでソチでの4日間はあっという間に過ぎていった。
ホストの旦那さんとはここでお別れだ。ブログを書きながら振り返ると本当に、めちゃくちゃよくしてもらったものだ。ただの日本人観光客としてだったら簡単に行けなかった場所や、公共交通機関ではいくのが難しい場所にもたくさん連れて行ったもらった。感謝しても感謝しきれない。
お土産に山ほどのチーズや、イチジクのジャムや、クルミのお菓子をくれた。旦那さんは、「ваше здоровье, Япония(日本でも乾杯しよう)」と言った。
現にこの夫婦は半年後に日本に来ることになる。残念ながら仕事の調整ができず、私は夫婦とは旅行できなかったが、今思えばちょっとくらい仕事で怒られても会いに行くべきだったなと後悔している。
晩夏のソチ・モスクワツアー(H30.9.14-20) その4 ソチ観光編
さて、旅の4日目。
この日は、朝から茶園に連れて行ってもらった。
なんでもソチには地球最北の茶園があるそうだ。これまでの旅行でもよくわかったが、ロシア人は本当に紅茶が好きだ。彼らはいつでも紅茶を持ち歩いており、いつでも欠かさないようにしている。
でも、お茶は本来寒いロシアでは作ることができない。そのなかでソチ地方は湿潤で、温暖なのでなんとか頑張ってお茶を栽培したのだろう。
この辺りの茶業の振興には日本も関連しているらしく、いろいろ検索すれば情報がヒットする。
そうそう、ロシアンティーと言えば、ジャムを溶かして飲むのは実は誤解、という風説があるがここではイチジクのジャムを溶かして紅茶を楽しんだ。
必ずしも完全に誤解、というわけでもなく部分的にはやはりジャムを紅茶に溶かす文化はあったのだろう。
あと、ここにも犬がいた!犬かわいい!
残念ながら、天気が悪く茶園に行くことはかなわなかったが、ロシア人がいかに紅茶を愛しているかよくわかった。
ルピシアさんのサイトに、ロシア・ソチのお茶文化についての記載がありました。あわせて読むとロシアのお茶文化がよくわかりました。
ちなみに、外務大臣だった榎本武揚が、ロシアを横断した際に執筆した手記にも中国からのお茶キャラバンと何度もすれ違う様子が描かれています。
この日の雨は結構すさまじく、街を縦断する川には茶色の濁水があふれていた。ソチは最北の亜熱帯と言われることもあるが、なるほど沖縄のように晴天と大雨を繰り返していた。
そしてこの日の昼食。
この後、市場に連れて行ってもらったのだが、ここではローカルのジャムや、お菓子、チーズなどを買うことができた。
この棚のうえの方にある細長い赤い物体は、クルミをういろうのような甘い生地で包んだものを、糸でつないであったものだ。
試食してみるとこんな感じ。
圧巻だったのはチーズ、見よこの物量。
それをこのおばちゃんが無限に試食させてくれる。
こっちのほうの人のチーズ食べる量は半端ないらしく、見る間に両手に溢れんばかりのチーズ。美味しかったし、せっかくなので全部食べたが、さすがに気持ち悪くなってこれ以降ずっとおなかの調子が優れなくなった。
好き嫌いのレベルではなく、胃腸の構造が違うんやろうなと思った。
あと、ソチオリンピックのメイン会場にも連れて行ってもらった。
これはサッカーワールドカップの記念碑。
オリンピック会場は広すぎて全部は見れなかったが、一部はF1レース場となっていた。何気にF1レースを生で見たことがなかったので、そのスピードと爆音は圧巻だった。
あと、ここでも犬と出会った。飼い主は見当たらなかったが、野良犬かな?
今日はお腹を壊したり、旅の疲れが出たりもしてホストのおうちについてからはゆっくりしていた。
それでも今振り返ると圧倒的行動量で驚く。
コロナ禍で下がり切った体力ではここまでたくさん行動できないことだろう。また、旅行できる日に向けて体力をつけなおしたいところ。
晩夏のソチ・モスクワツアー(H30.9.14-20) その3 サナトリウム編
昔の写真を整理していて、ふとソチ・モスクワの旅についての日記が途中だったことを思い出したので、4年前の記憶を振り返りながら記してみたい。
旅の3日目。
午前中はホストファミリーに、近所の山にピクニックに連れて行ってもらった。
そこで、コーカサスの素晴らしい自然を満喫した。
またコーカサス山脈は、かのギリシャ神話の神、プロメテウスがゼウスによって磔にされたと言われる。それをモチーフにしたブロンズ像があり、世界的な神話の聖地巡礼ができたかと思うと達成感があった。
午後からは自由行動、なんでもソチは戦時中保養所(サナトリウム)が多く建設されたそうで、各地にその廃墟が点在している。バスなども活用し、3人でサナトリウムを探しに行ったのだ。
日本でサナトリウムの廃墟というと、心霊スポットになりそうだが、それらの設備はそれなりに手入れしてあるので、いまでも公園として親しまれているようだ。ちなみに、警備員が数名いて入ってはいけないところに行こうとすると、注意される。
これは旅行を通して感じたことだが、公共施設の管理に相当のマンパワーを割いている様子。そのあたりは、旧共産圏の名残だろうか。
ちなみにソチはスターリンの出身地でもあり、しばしばソチで休暇を取ったそうだ。
この日は結構歩き回ったもので、しばし分厚い壁の上で横になってリラックスした。
そうそう、ソチの料理は結構ジョージアの影響を受けているようで、結構独特。
名前を憶えているので言うと、下から2番目の料理はヒンカリといい、ユーラシアの餃子兄弟の一角だと思う。
ちょっとショックだったのが、結構パクチーがきついこと。東南アジアと違ってパクチーがないと思って油断していたが、まさかこの辺りまでパクチー食文化があるとは。
あと、ヒンカリの生地をねじって太くした部分があるが、あれは食べなくてもいいらしい。結構食べて苦労した。
その日の夜は、ホストにマツェスタの浜辺に連れて行ってもらい、焚火を楽しんだ。どうやら旦那は焚火が大好きらしい。
缶ビールを片手に、波の音を聞きながら、焚火で焼いた真っ黒なジャガイモを食べていると、なんだか感激の涙が込み上げてきたものだ。
友人の篠笛披露も、この焚火での語らいを雰囲気よく演出しており、いい感じだった。
本当に原始的な遊びだけど、なんというか無性に人との交流が温かいものに感じられ、アルコールが体に染みわたるようなフワフワした気分になった。
なんか、これを忘れてはいけないような気がしたので、記録しておきたい。
【考え事】なんで労働組合がリベラル系の政党を応援するのか【まとめ】
ふいに思い立ったので、まとめていきたいと思います。
よく、労働組合に対する批判として、労働者のための互助組織をうたいながら、立憲民主党などの特定政党を応援していることについて、労働組合は政治のための組織なのかという批判の声があることがあります。
とても素朴な疑問なのですが、これに応えるためには日本の戦前戦後の歴史までさかのぼる必要があります。キーワードは下記の通り
・マッカーサーの五大改革指令
・共産主義の台頭
・逆コース
1945年8月
日本はポツダム宣言を受け、連合国軍に無条件降伏します。
GHQの総司令、マッカーサーは当初、日本が今後二度と世界に対して牙をむくことができないよう、戦争を起こした旧政権の幹部を公職から追放し、同時に日本の民主化を進めました。
こうして推進されたのが、日本の政権構造を破壊する、五大改革指令でした。
そして、その中の一つに「労働組合の結成推進」がありました。
当時、世界において労働組合は、武力を持たない労働者の集まりであるからして、戦争には反対的な立場をとりその抑止力として働くことが多かったのですが、戦前の日本では共産主義が禁止され、労働者の活動が抑止されていただけではなく、戦時中の全体主義のなか労働者からなる政党すらも国家総動員の掛け声にあおられ、挙国一致して戦争への道を推し進めてしまったという反省から来るものです。
これを受けて、日本では雨後のタケノコのように労働組合が立ち上がります。
この動きは、政権を打破せんとまでに成長し、1947年2.1全国の労働者が一斉にストライキを取るという、ゼネストが計画するまでに至りました。
これを受けて、これまで労働運動を推進していたマッカーサーは、方針を急転。圧力をかけてゼネストを中止させます。
この背景には、第二次世界大戦後の世界で、旧ソ連や中国、北朝鮮などの共産主義勢力が急成長しているなかで、こうした動きが革命につながり、日本も共産主義の手に落ちるのではないかという懸念があったといわれています。
同時にマッカーサーは追放していた戦前の政権幹部を呼び戻し、急速に反共産主義の砦としての日本を構築するために、政権の立て直しを行います(これらの急激な方針転換を「逆コース」と呼ぶ)。
こうして、政権に舞い戻ったのがA級戦犯唯一の生き残り、岸信介です。
(ちなみに、阿部元首相は岸信介の孫にあたります。阿部さんは特に岸信介を良く信頼していたとも言われ、これが安倍首相がリベラル勢力から諸悪の根源のごとくに組まれる原因の一つとなったのかもしれません。)
もちろんこうした動きは、また戦争の時代に逆戻りしてしまうのではないかという労働者の不安を触発します。戦前の政治勢力に対抗するために、複数あった労働者政党を「日本社会党」に一本化。すると、これに負けじと戦前勢力も勢力を一本化、こうして立ち上がったのが「自由民主党」です。
こうして、国内の政党は大きく全体の約2/3を自民党が、約1/3を日本社会党が担う「55年体制」となります。この、約2/3というのがミソで、厳密には自民党が2/3を超えることはなかったそうです。
もし、2/3を超えていたら、当然自民党は改憲の発議を行い、GHQから押し付けられた不本意な憲法の改正を行うところでしたが、それはギリギリのところで日本社会党に阻まれます。
だから、今でも自民党は憲法改正を目指し、日本社会党の流れをくむ立憲民主党などは護憲の立場をとっているのです。
しばしば、憲法を改正しようとしている自民党が「保守」で、憲法を守ろうとしているリベラル勢力が「革新」とされることに疑問を抱く声がありますが、これはどこを基準として保守的か、革新的かという話であって、基準は第二次世界大戦の前と後、戦前の価値観に対する保守(≒当然、憲法を元に戻そうとする)と、戦前の価値観からの革新(つまり、戦後にできた憲法を守ろうとする)の戦いとなっているのです。
それから、70年、保守と革新は政争を続けます。
平安時代、源氏と平氏がその権力をめぐって争ったように、昭和から平成は保守と革新が争う時代なのです。
長年に亘ったたたかいは、いつしかマンネリ化し、その議論は国民の気持ちを置き去りにしていきます。
ということで、冒頭のなんで労働組合が、リベラル政党を支持するのか、というと戦前からずーっと「恒久の平和」が労働者の夢だったからなわけです。
こうした歴史を踏まえると、冒頭の問いに対しては「社会とはそーいうもん」の一言で片付くわけですが、一方で現状のリベラル勢力はその原点が労働運動にあることを忘れているのでしょうか?
支持基盤である労働者を守ることよりも、宿敵である自民党を倒すことだけに囚われてしまっているようにも見えます。
皮肉にも、本来リベラル政党の役割である「働き方改革」や「女性の活躍」すらも自民党が主導してしまうという逆転現象すら起きてしまっています。
2009年、日本社会党の子孫にあたる民主党は、一時は自民党から政権を奪い取ることに成功しますが、その後国民の期待に応えることができず、すぐに政権を明け渡すことになってしまいます。
もしこの時、働き方改革や女性の活躍推進を彼らがリーダーシップを持って進めることができれば、もう少し結果は変わったかもしれません。
その後のリベラル政党の凋落については説明不要ですが、私たち労働者は彼らを見限るべきなのか、立て直すよう頑張るべきなのか、それは私にもわかりません。
ただ、私たちが政治の世界に労働者の声を届けたいのであれば、頼れる政治勢力は、自民党よりは立憲民主党などのリベラル政党でしょう。
最近はコロナで自民党もさすがに苦戦していますが、もし自民党が2/3以上の議席を獲得し1955年以来の均衡が破られたら、次はどんな時代になるのでしょう?
それは、未来のお楽しみ(?)