晩夏のソチ・モスクワツアー(H30.9.14-20) その2 青い黒海編
さて、ソチに着いて2日目。天気は快晴である。
今日はこの夫婦が個人所有するヨットで、黒海をクルージングするのである。
黒海というととても閉鎖性の高い海で、九州の大村湾みたいな海だが、実際のところどうなのだろうか?
沖まで出たところで、みんなで海に飛び込む。遊び方が本当にワイルド笑
泳ぎは得意でよかった笑
水中はこんな感じ。水の色が少しだけ緑がかっているような気がするが、透明度は結構高い。黒海の名前の由来は、水が黒いからとのことだが、この独特な緑を黒い海と例えたのだろうか。
塩分はかなり薄いように感じた。閉鎖性つよいから、淡水の流入量の方が多いのかもしれない。
旦那がサクッと釣ってくれた魚。スコーピオンフィッシュ。背びれには毒があるらしい。
波止場にも魚が泳いでいるのが見えたので、これも旦那にサクッと釣ってもらった。
見た目はアジのようだが、日本のアジとどう違うのだろうか?
黒海は予想に反して、とてもきれいで、うまそうな魚もたくさん住んでいるみたいだ。
海の近くに来たのであれば、新鮮な魚介を堪能してみたかったところ。
とか言ってたら、旦那が市場で魚の干物を買ってきてくれた。
と言っても、はらわたも抜かずに塩漬けして干したものであり、ホストの奥さん曰く「前に日本人から『これは干物じゃなくてただの死んだ魚だ』と言われた」とのことであるが、確かにこれは少し抵抗があるかもしれない。
それでも、港で見たさっきのアジなんかもいたから、興味もあってちょっと味見。
うーん、ちょっと塩辛すぎかな?あと、意外と一夜干しくらいで半生感が少し怖いな。
旅先で腹をこわすのはごめんだったので、少しつまんだくらいで遠慮しておいた。
でも、ビールのあてには悪くはなかった。
もうちょっと魚食文化が発展すれば、食文化がさらに豊かになるかも?
その夜は、ホストの旦那とコニャックを飲んだ。
ロシアの乾杯は、定期的に誰かが立ち上がって前口上を述べた後、乾杯するというルールのようだ。
こちらは全くロシア語はわからないが、定期的に立ち上がってはロシア語で何らかの挨拶をして乾杯した。よくわからないけど、楽しんでもらえているみたいでよかった。
友人は旦那とバイクの趣味が一致したらしく、スマホでお互いの愛車の写真を見せあいながら楽しそうにしていた。
ときおり、簡単な英語で内容を説明してくれていたが、それを聞いたホストの奥さんが「英語を使っているのを初めて聞いた」と嬉しそうに話していたのが印象的だった。
そうそう、ロシア語で乾杯は「ваше здоровье(バシャーズダロビア)」と言うが、これは直訳すると「あなたの健康のために」という意味で、これは日本語の「皆様のますますのご健勝を祈りまして」と似ている。
乾杯を順繰り回していくのも、田舎の農家の飲み会みたいで面白い。
普段はロシアと日本でほとんど交流はないけども、こういう部分で根本的に共通な何かがあるのかも?とか思ったり思わなかったり。
晩夏のソチ・モスクワツアー(H30.9.14-20) その1
2年前の10月、そして今年の2月と、2度のロシア旅行を通して、すっかりロシアファンになってしまった、と言いたいところだったが、ウラジオストクもイルクーツクもロシアの中では辺境の土地、ロシアと言えば一般的に思い浮かぶ、モスクワやサンクトペテルブルクにはいったことがなかった。
それに地政学的にはウラル山脈を越えて西側のことをヨーロッパと呼ぶらしく、私が過去に訪れた2都市はそれぞれ東アジア、中央アジアということになるそうだ。
はるか遠くの地に思いをはせるうちに、一通の手紙が遠方から届いた。
それは、前回のイルクーツク・バイカル湖旅行の時に、一緒のツアーに参加したソチに住むロシア人夫婦からの招待状だった。
かくして、前回のメンバー3人が再度集まり、私にとっては3回目のロシア旅行が始まったのだ。
今回の最終目的地は、モスクワから500km南のソチ。黒海に面したリゾート地である。
ソチオリンピックでちょっと有名になった都市だが、実際にどこにあるかは夫婦にあうまでは想像してもみなかった。
また、ロシアのちょっと変わった部分を知ることになるのだと思うと楽しみである。
が、問題はやはり現地へのフライトである。
私たちの住む田舎からでは、少なくとも2回は乗り換えが必要になる。
前回の帰りのフライトでは、北京で乗り換えに失敗し、致命的な追い銭を払うことになった。なので、1回の乗り換えは国内成田に持ってきて、そこからモスクワ、ソチという航路をとることにした。
航空会社は、アエロフロートと、S7エアラインが選択肢にあったが、アエロフロートはもたもたしている間にどんどん料金が上がってしまったので、イルクーツクの時にお世話になったS7を使うことになった。
また、モスクワはシェメレチェボ空港と、ドモジェドヴォ空港の2つが主として利用されるようであるが、S7の場合はドモジェドボ空港発着のようだ。
モスクワーソチについては、本数も多くいくらでも融通が利きそうだ。
日程は、フライトの都合により合計5泊7日の過去最長プランとなった。
さすがに田舎のソチですべての日程を埋めるのは難しかったので、ソチで3泊、モスクワで2泊のプランとなった。
成田ーモスクワは約9時間のロングフライト。
S7のサービスがいかほどのものか、正直期待できず心配であったが、ふたを開けてみると実際の機体はコードシェアしているJALの機体だった。
それで、LCCの価格って最高じゃ??
ということで、JALの豪華な機内食に舌鼓を打ちながら、3度目のロシア旅行は幸先よく始まったのだ。
ドモジェドボ空港からの景色。
まっすぐに伸びる空港道路が気持ちいい。計画経済っぽい??
ドモジェドボ空港は、本当に程よい規模でそこからの国内線乗り継ぎは、ターミナル間の移動もなく、2時間15分の乗り換え猶予の間に、入国ー荷物受け取りー再度荷物預けー搭乗と悠々と乗り継ぐことができた。
また、ついでにここで現地simも入手。相変わらずなんて言っているかよくわからないが、15GBで1500ルーブル(当時のレートで2300円ほど)のsimカードを入手。
日本で私が契約している格安simよりもはるかに安い(笑)
前回、global wifiを使って、重いわ高いわ繋がらないわで苦労したが、これで今回は心配なしだ。これをテザリングして3人で使う。
モスクワーソチの間はS7の機体で2時間半。座席指定は直前にしかできなかったため、私は運悪く、両脇を屈強なロシア人男性に囲まれ、体を小さくしてその時間を乗り越えるしかなかった。
どうもソチの天気は良くないようで、着陸時に少し機体が揺れた。
着陸時の拍手喝采は、別にイルクーツク空港に限定された話ではなく、ロシア人ならではのお約束のようだ。
ソ連時代は、ロシアの航空機は非常に古いものばかりで、乗客は祈るような気持ちで飛行機に乗っていたそうだが、この拍手はあくまでもその時代を自嘲するようなロシア流のジョークであることを信じたいものだ。
ソチ空港についてからは、ロシア人の夫婦が迎えに来てくれていた。
今回、ソチでの3泊はこの夫婦の自宅にホームステイなのだ。おまけに、3日ともソチをガイドしてくれるという神待遇。
こちらから、お礼にと持参したささやかなお土産を渡して夕食をとる。
奥さんが用意してくれた手料理を肴に、旦那のコニャックで乾杯する。
なんてすばらしい旅行なのだ!
明日から、いよいよ本格的に旅行開始だ。
【趣味】スキンダイビング(素潜り)って楽しいのよ!!
前の記事で、川でのシュノーケリングを試したことを紹介しました。
それで、最後に見つけた白滝公園の淵にさっそく潜りに行ってきたのですよ。
おー、きれいきれい。
でもね、実際のところファーウェイちゃんのカメラ、勝手にきれいな色に補正してくれてるけど、実際のところ前日に夕立が降ったせいか、前に来た時よりも濁って見えた。
でも、鍾乳洞から湧水がわいているあたりには、ヤマメの姿も見れたから、これは淵に潜ればヤマメと一緒に泳げるのかも??
と、期待して潜ってみたのよ。
ぬーん、やっぱりあんまり視界はよろしくないようで。
どうしても、土が舞って透明度を下げてしまうし、日影が多いので水中がどうしても暗くなってしまう。
でも、おぼろげだけど何かの大きな魚の大群に出会えた。
瞬く間にいなくなってほとんど写真は撮れなかったけど。
というか、川魚俊敏すぎ(笑)。
最初はブラックバスかと思ったけど、違うみたい。鯉?にしては、俊敏だったような気もするし、形もシュッとしている。
という感じで、魚に出会うことはできたものの、視界が悪く、やっぱり水が冷たいので20分くらいで退散。
でもね、私思ったんです。
潜るのってすっげー楽しいな!
ということに。
私は、小学6年生のときに買った、淡水魚の水中写真の図鑑を読んでから、ずっと水中の世界にあこがれを持ってました。
社会人になり、技術の発展も合わさり、水中カメラが手軽に手に入るようになってからこういう遊びを始めたわけです。
その中で、必然的に潜水スキルを身に着けたのですが、これがほんとに気持ちいいのよ。
水中深いところから、水面を見上げると、ちょうどいつも住んでいる部屋の天井くらいの高さに水面があって、それが光を反射してキラキラ光っているわけです。
その、水中深くにいるときの何とも言えない心地よさ、そして感覚が研ぎ澄まされるような水中の緊張感、陸上にはない静かな水中の世界。
ジャックナイフで、水面から深くに体を沈めるときは、なんとかくナウシカの腐海の底のシーンを思い出す。
それくらい、水中に潜っていくとき、水中に沈んでいるときというのは穏やかな気持ちになる。
そういうわけで、水中撮影とかなしで、ただ潜るだけでも十分楽しい。
しかも、おまけになぜか潜ってから1週間くらいはすこぶる体調が良くなる。いつもきれいな海に潜っているせいか、心なしか肌つやも良くなる気がするくらい。
やっぱり、多少水中撮影にマンネリを感じたとしても、潜ることは続けていきたいなと思ったところでした。
もちろん、ゆっくり水中に潜っていられるスキューバも素晴らしいけど、本当にそれと比べることができないけど、スキンダイビングも楽しいよと。
【調査】川辺川でシュノーケリングはできるか?
前にこんな記事を書いた。
読み返したが、なかなか良い記事だ。
要は、
①まったりだらだらすることも休憩の意味では必要なことなのだから、自分の人生のタスクの進捗とバランスを取りながらだらだらすればよい。
②具体的に、タスクとだらだらのバランスを評価するために、平日1アクション分、休日3アクション分の時間を持っているとして、そのうち自分がどれだけダラダラに時間を消費しているかを可視化すること。
などを提言している。全く実行できていないが。
さて、今週の土日もそんなダラダラしてしまいがちな用事のない週末だった。
しかし、このままでいいのかという、わずかな危機感が私の体を起き上がらせたのだ。
ちょっと前であれば、夏の晴れた日は海にシュノーケリングに行っていたものだが、最近は片道3時間かけて天草の西の果てまで車を運転する情熱が失われていた。
もうちょっと近場でシュノーケリングできないものだろうか。
ということで、熊本最高の清流とうたわれる五木村の川辺川に、車で2時間弱かけて出かけてきたのである。
今日選んだのはこのポイント。なかなかの透明度だし、流れも浅く緩やかなので、事故も起こりくそうだ。
上の写真では、バンジージャンプが行われていた。私がいた2時間ほどの間に数人のジャンパーがいた。
1人で川にシュノーケリングしに来るええ年のおっさんと、ただただスリルを求めて端から飛び降りる人たちのどちらが狂っているだろうか?
うーん、確かにきれいだけど想像していたほどの透明度はないかな?
どうしても流れがあるせいで、砂が舞ってしまうようだ。
そして、川魚君、君たちはほんとに地味だ笑。
私はもともと海よりも川派なので、当然川魚も好きなのだが、いかんせん写真にすると地味なのだよ。
流れを読み、流れに遊ぶ姿を眺めるているととても見とれるようなのだけど、やっぱり地味なのだよ。
甲乙つけるつもりはないが、半月前に私が潜った天草の海の写真もついでに載せておく。
やっぱりこっちのほうが映えるのよねー。
まあでも、こっちもやっぱり天草より近いし、淡水だから後のべたつきも少ないし、思ったほど水も冷たすぎないし、ありっちゃありやな。
そういうわけで、さて帰るかと思ったら、一つ前の記事の通りメガネを見失ってしまったわけ。
1時間探したと書いたけど、実はあまりに見つからなかったので一度家に帰って、別のメガネを装着して探してようやく見つかったんだよね。
だから、この川辺川にも2回来てるのよ。
2回目は川に入らなかったから、せっかくだからと水切りを練習してきた。
水辺の多い環境に生まれ育ったから、これは得意なのよね。
100投くらい投げて、何となくおっさんの体でどう投げればいいのかをつかんだ。
結構いい運動になったかもしれない。何より、物を思いっきりぶん投げるのはストレス解消になる。
水面をすべるように石を飛ばせたときは、何とも言えない爽快感があった。
そうそう、帰りにいい発見があった。
白滝公園。ここには実は「滝」はない。石灰岩の巨大な白壁を滝と例えているのだ。
さっきよりもかなり上流で、水量が少ないので泳げないだろうと最初からスルーしていた。だが、実際にはかなり深い淵があり、かなり潜り甲斐がありそうだ。
着いたのがすでに夕方で、暗いせいでそんなに奇麗に見えないが、実際は最初のポイントよりも透明度が高い。
その透明度をコミットしているのが、近くの鍾乳洞から流れ出る湧水である。
写真に見える通り、ヤマメと思わしき水玉模様の魚もいた。
五木村特有の、鬼のようにしっかりした施設で安心感がある。
というか、もっとPRすれば一大観光地になりうると思うのだが。
かくして、私が本来であればダラダラしていただけのはずの週末で、遊び場の調査と適度な運動ができた。
すっかり忘れていたけど、タスクとダラダラのバランス管理も今後はやっていきたい。
いい週末だった。
【難問】メガネを求めよ。
<問1>
メガネを求めよ。(1998,京都大)
<解説>
例えば、メガネのような無機的な物体を、同じく無機的な物体である石ころがたくさん転がっている、河原のような場所に置いたとする。
もし、その状態で一瞬でも目を離すとたちまち周りの風景と同化し、再び見つけることが困難な状態になる。
ましては、「メガネを探す」、ということは現在探し手は裸眼であることが想定され、その場合ますますメガネを見つけることが困難となる。
非常にシンプルであるが、立体的なものの見方を問われる難問であるとして、その年の受験生の間で話題となった。
<参考>
出題者は、たった一瞬目を離したばかりに、メガネを探して河原を1時間以上さまようことになった。
河原に小物を直接置いてはいけない。絶対にだ。
ネット廃人はネット断ちすることができるか?
スマホを変えることにした。
なんでも、次世代のスマホはsimカードがさらに小さいらしく、乗り換えるためにはsimカードを作り替えなければならないそうだ。
私は海外旅行で現地のsimカードを買うようにしているので、これってそういう海外の現地simと互換性あるのかねとか思いながらも、どうもsimカードの小型化は全体的なトレンドのようであるので、小型simのスマホに乗り換えることに。
で、新しいsimカードの作成を依頼したら、その翌日に急に今のスマホのsimカードが無効化された。
と、いうことはそれが届くまで、ネットなしの生活を送らなければならない。
どうせ荷物はいつも通り、時間帯に家にいなくて不在票になるパターンが見えている。
これは、しばらくネットなしだぞと。
全く、事前告知くらいしてほしいものだ。
もう彼これ10年くらいは、快適な速度のネット環境下に生きてきた私としては、なかなか珍しい体験になりそうだ。
もはやネットは、私の第2の脳といっても過言じゃないくらい、生活の、そして体の一部となっているのだ。
果たしてネットなしにこの膨大な時間を過ごすことができるのであろうか?
それは、まるで、ラマダーンの修行のようだ。
さて、いざネットなしの生活をしてみると、それはそれで気づきが多いものだ。
まず、気持ちがとても落ち着くということに気が付いた。
まるで、静かな海辺に立っているかのような、穏やかな気持ちになれる。
普段、いかにネットから雑念を受け取っているかということだ。
2chのコピペブログ、twitter、facebookといった普段のネットサーフィンのルートには思い起こせば、私の脳みそをもやもやさせるような記事も少なくない(その記事が正しいかどうかの問題ではない。ただ私にとって素直に受け入れることができるかどうかが問題なのである。)。
もちろん、面白い記事や勉強になる記事も数多く、それを楽しみにしてネットサーフィンに興じているのはおそらく間違いない。
ただ、同時にそれだけ多くの雑念も、インターネットから体内に取り込んでいるのだ(最近やたらと目障りなターゲット広告も、私の脳みそにノイズを与えているのかもしれない)。
あと一つ気づいたことは、日ごろぶち当たる簡単なトラブルや、ふと思いついた疑問のうちかなり多くを、Google検索で解決しようとしていることである。
さっき、バドミントン帰りにクールダウンがてら、近くのコンビニに夜食を買いに行ったときのことだ。
今日のハードな試合に、私の足は限界を迎えていたらしく、コンビニの前の道路を渡る横断歩道のど真ん中で、足を攣ってしまったのだ。
しかも、普段よくあるふくらはぎのこむら返りではなく、むこうずねの筋肉が攣ってしまったのだ。
何とか渡り切った後、歩道の淵の縁石に座って痛みに耐える。
始めて攣る場所なので、痛みも相当のものである。
しかも、むこうずねなんて、どうやってストレッチすればいいんだ…。
誰かこの苦痛から解放してくれ!
私はその時頭の中に3つの言葉が浮かんだ
「むこうずね 攣ったとき 伸ばし方」
しまった、ネットないじゃん!!
結局、いろいろ苦しみながらも、いろんな方向に足を曲げることを試してみて、痛みが緩和されるような伸ばし方を自力で発見することができた。
が、やはり日ごろトラブルに遭遇した時、頻繁にGoogle先生に助けを求めているのだ。
あと、帰り道にもふと、疑問が思いつき、それを解決するような検索ワードが頭の中に浮かんだが、パソコンを開くまでにその疑問が何だったかも忘れてしまった。
その疑問を解決していれば、思わぬ知見が得られたかもしれないのに、ちょっともったいない気分だ。
・・・という具合に、まだほんの半日だが、日常にネットがないというだけで、ちょっとした行動の変化がたくさんあった。
ネットがない状態は、私がネットのないスマホのように機能停止してしまうのではないかとも大げさに思っていたのだが、案外そうでもないし。
ただネットがないというだけで、普通に暮らしているのが、お寺で生活しているかのような、質素ですがすがしいものに感じられる。
もちろんこの情報化が進んだご時世に、ネット断ちのすべてがプラスに働く、ということはあり得ないが、たまにネット断ちすることで、時間と脳みその使い方が改善できるのではないかと思った。
(ほかにもちょっとした隙間時間に、スマホで時間をつぶせないので、家の家事や部屋の片づけがはかどるというプラス効果もあるみたいだ)。
新しいスマホが届くまで、ネット断ちが自分に脳みそと生活にどう働くか、しばし実験である。
おっさんになると新しい音楽を脳みそが受け付けなくなる説
30歳近くなってくると、新しい音楽を脳みそが受け付けなくなる説。
私がその例の一つ。
大学生の時は、音楽CDを大量にレンタルしてきてはパソコンに落としていたものだが、社会人になってみるとそれもぱったり。
ただ、このまま趣味の一つがまた一つ失われるのも悲しいもので、久々にTUTAYAにCDを借りに行ってきた。
久しぶりすぎてカードもなくしていたし、TUTAYAにも自動精算機が導入されていることも知らなかった。
久しぶりに音楽を聞いてみると、なかなか悪くないもんだ。
音楽聞きたい気持ちを高めるのを手助けしてくれたよねづけんしに感謝したい。
脳みそが新しい音楽を受け付けなくなっているのではなく、そもそも仕事をしていることで新しい音楽を聴くのに割くリソースがなくなっているだけなんじゃなかろうか?
そうそう、最近、友達と交代でシェアしていたノートパソコンから、自分用のパソコンに切り替えてより自由度の高い運用ができるようになった。
自分用のパソコンを持つと、2chのコピペブログを漫然と眺めてみたりと、堕落した人生を加速させてしまうのではないかと思ったが、案外そうもならなかった。
というか、スマホだけでも十二分に堕落しつくしていたのである。パソコンのほうが画面を見やすいのと、文章を打ち込んだりするのも手軽なのと、効率よく堕落できるので同じ堕落ならパソコン使ったほうがいい。
ふと、思いついてまじめなことをしよう(例えばブログを書いたり、マクロの勉強をしようとしたり)とすれば、がぜんパソコンのほうが優れているので、パソコンのほうが堕落からの復活するにはいいと思う。
スマホの台頭により、パソコンはいらなくなったかなと思っていたけど、そうじゃなかったよ。VIVAパソコン。