人生とは片付けである。

「片付かない」というのは、「処理方針が決まっていない」ということであり、「決着がついていない状態」におおむね等しい。

逆に言えば、「片付ける」とは「決着を付ける」ことなのである。

 

一方、悔いのない人生を送るためには、身の回りの物事に一つ一つ「決着を付ける」ことが大切だろう。

 

さすれば、「人生とは片付けである」といっても、決して大げさな表現ではないだろう。

 

 

もうちょっと、限定的な話をすれば、仕事をすることもかたづけである。

 

仕事をしていて、「自分の仕事に関係あるか、ないかよく判断できない書類」や「多分、関係ないと思うけど、なんとなく捨てられない書類」が机の周りに積んであったりしないだろうか?

 

捨てられない書類や、収納場所を決めることができない書類があるということは、不安要素が仕事にあるということだ。一つ一つの書類の重要度は低かったとしても、そういうちょっとした「不安要素」が机の上に見える形で積上っていくことは精神衛生上、極めて良くない。

 

そのような状態を抜けるためには、その「いるかいらないかよくわからない書類」をじーっと見つめながら、「俺は具体的に、何が不安なんだ」「どうすれば、この書類を目の前から消し去ることができるのか?」ということを考え抜くことが大切だ。

 

処理方針が決まってしまえば、その書類を捨ててしまうか、特定の場所へ保管するかの判断は容易くなる。

もし、どうしても判断がつきにくいときは、1月とか、2月とか期間を定めた上で保管するといい。このとき、保管する場所は適当な箱や、机の一番下の引き出しに突っ込むとか、場所さえ決めていれば適当な場所でいいと思う。

んで、1月か2月に一回くらいその場所を見返してみて、「あ、これやっぱりいらんな」と感じればすてればいい。

多分残してた書類の9割くらいは、捨てることができると思う。

実質、パソコンの「ゴミ箱」のように簡単に復活できるゴミ箱になるのだ。

こうすれば書類を捨てることに対して精神的抵抗感がなくなり、判断が早くなる。

 

こうやってとにかく、書類の処理方針を決めて、捨てるorしまうを徹底していると、必然的に机の上から物がなくなっていく。

逆に仕事に追われて、処理が追いついてこなくなると、机の上がどんどん散らかっていく。散らかっているのは、書類ではなく、本質的には「不安要素」である。

だから不安を払拭するために、とにかく片付けたくなる。片付くと、とても気持ちがよくなる。

だから、一層かたづけが好きになって、仕事もはかどる。

という好循環が構築されるのだ。

 

だから私は、仕事をすることは片付けることだと思っている。

 

 

で、人生の場合はどうだろうか?

仕事においては、片付かないもの=不安要素であったが、人生においてはどうだろう?

 

私は、人生においては、片付かないもの=未練があるものだと思っている。

 

例えば、お気に入りだったけど、今はくたびれてしまって着れない服というのは、とても捨てることが難しい。

これは、その服の思いでがそうさせる訳だ。だけど、着ない服の存在価値なんて実際全くない。

 

そういうときは、その服を供養してやることで、それにこもった未練を成仏させてやることが有効だ。

 

具体的にどうするかというと、最後に自分一人でファッションショーをするのだ。その服でできる最高のコーデをした写真を撮る。

ハンガーで組み合わせるだけでもいいかもしれない。

んで、その服の思い出や、なんでその服が好きだったのかを綴った記事と一緒にブログなどに載せる。

 

そうすると、その服に残った未練が、文章と写真という別に形に乗り移り、だいぶ捨てる勇気が出てくる。

あとは、感謝の言葉とともに、葬って上げるのだ。

 

あとは、コーデを探して写真を撮ろうとしてみると、以外と合うコーデがなかったり、改めてくたびれすぎて着れる物じゃないなとあきらめがつく場合もある。

 

 

それでもどうしてもモノを減らせないという人は、「捨てないことにも金がかかる」ということを意識すべきだろう。

 

たとえば、12畳で月5万円の部屋を借りているとしよう。もし借りに、捨てられない何かが、1畳分のスペースを潰していたとすると、その捨てられないものの為に、大体月4000円くらいのコストが発生していることになる。

「もったいない、何かに使うかもしれない」

そんな気持ちで残しておいた物に逆にコストをかける、というあべこべの状態になることも頭においておくとよい。

 

あとなにより、「捨てられないもの」とは「未練があるもの」ということである。未練がある物が、部屋中に転がっていることは、実に風水的に良くない感じがしない??

 

 

あとは、「いつか読む」とか「いつか勉強する」とかで本が捨てられないパターンも多いと思う。これについては、今のご時世、「検索が不可能な情報はほぼ役に立たない」ということを覚えておこう。

逆に言うと、捨てたくないのなら、evernoteとかのアプリでデータ化して、検索可能な状況にしておけば、そのうち日の目を見る日も来るかもしれない。

 

そうそう、あとは一つ意識すべきことは、「認識できないものは存在していないことに等しい」ということだ。よく、深くしまいすぎて引っ越しまで使うことがなかったということがある。

その間、それは持ち主にとって存在しなかったのと同じである。

それでもその間困らなかったというなら、そもそもそれは最初から必要なかったのだ。

 

 

ということで、断捨利について長々と述べて参ったが、これもいわば思考のお片づけである。

普段から、とりとめもなく頭の中をぐるぐると回っていた持論を文章にして棚卸しすることで、思考を保存することができ、絡まった糸がほどけるように頭の中がすっきりするのだ。

 

みなさまにおかれましても、おかたずけで未練のない人生を送ることをお祈りしている。

 

 

ポイント

「片付ける」とは「決着を付ける」こと

仕事においては、「散らかる書類」は「不安要素」そのもの

人生においては、「片付かないもの」は「未練があるもの」

「捨てないことにも金がかかる」

「検索が不可能な情報はほぼ役に立たない」

「認識できないものは存在していないことに等しい」

税金で沖縄にAKB総選挙呼んだ問題について

http://saigaijyouhou.com/blog-entry-17564.html?sp

 

AKB総選挙に税金が投入されたことが問題みたいになっとるけど、よく読んだら正確にはAKBに直接金をぶち込んだのではなく「AKB総選挙を沖縄に誘致する」のに税金を投入したわけ。

 

確かに、悪目立ちしそうな支出してるとは思うけど、程度の差はあれ、イベントの誘致や、芸能人の力を借りることは、地方行政の観光振興とかでよくある話。

 

問題の本質は、「AKB呼ぶのに税金を突っ込んだこと」じゃなくて、せっかく沖縄の振興のために国から配分された税金が、安易にカンフル剤みたいな使われ方しとることなんだけど。

 

「安易に」と言ったけど、それも多分その時の行政関係者とかは悪気なく、真面目に一生懸命考えて(ひょっとしたら疑問を感じながらも)やったんだと思う。

 

さらに背景には、単年度単位でしか計画を立てづらい今の予算制度とか、その割に多額な沖縄振興予算(それでも、かなり減らされてるらしいし、沖縄振興予算自体もいろんな事情が絡まってる)とか、もっと根が深い問題があるはずなんだけど。

 

そんなんも行政の仕組みに深く携わった人しか想像できんよなーとか。

 

そーやって結局、枝葉の部分ばっかり叩かれて、本質的な部分は改善されないまま似たようなこと繰り返すんだろーなと思う。

 

何かよろしくないことやらかしたとしても、必ずしもどこかに諸悪の根源みたいな奴がいるわけでなく、そういうことがいつか起きるべくして起きるような仕組みになってるから起きるのだと思う。

 

だから、仕組みを常にどう改善するかを考えなくちゃいけんのだと常々思ってる。

なんとかは足元から

news.line.me

で、でたー!!

 

できるビジネスマンは足元もきちんとしてますって謎理論!

 

靴磨きしてる暇があったら、仕事しろっての!!

 

 

と、ちょっと昔の私だったら、ムキになって否定したと思うが。

 

この記事の中にある。

”ものを大切に扱う人は、人への心配りもできるので周囲から自然に引き上げられ、出世していくというのだ。”

 

というのは、ちょっと納得。

 

理屈的には自分の身なりがぼろぼろでも周りの人に気を配れる人はいるはずなのだが、やっぱり経験則的に見れば、物持ちがよくて身なりがちゃんとしている人は、周りに気を配れる人が多いような気がする。

 

周りの人に気を配れる人は、大体人付き合いもうまくて、まわりとコミュニケーションがとれてるせいか、大体仕事もきちんとこなす人が多い。

 

みためちゃんとしているけど、見掛け倒し、みたいな人はあんまり見ない。

 

なんなんだろね、この謎の相関関係。

 

 

で、私はというと、そういうのめっちゃくちゃ苦手である。そして、案の定、周りに気を配るとかも超苦手である。

 

ほんと、なんなのこの相関関係。

 

ワイシャツのアイロンがけでさえ、過労死寸前でなんとかやってるのに、それに靴磨きまでこまめにするなんて、サービス残業みたいなもんだ。

 

家では、ニコニコ動画でもみながらゆっくり休まないと、回復できないと思っている。

 

でも、確かにあの「できる連中」から漂ってくる、あの「ピシッとした」感じはずぼらな私でもあこがれなくはない。

 

ということで、早速ネットで靴の磨き方を調べて自分で磨いてみることにした。

 

靴紐はいったん取ると、元のきれいな形に結ぶのは面倒くさいなとか考えてたけど、早速「靴紐は解いてから磨きましょう」だって。

 

まったく面倒くさいったらありゃしない。

 

そして、とりあえず片足磨き終わった後がこれである。

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確かに、結構ぴかぴかになった。

 

この調子で両足磨いて

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完成!これで俺も気配りができる人間の仲間入りである。

 

いや、でもこれって身なりが一見ちょっとピシッとしたとしても、中身はいつものおれだよな?

 

ってことは、

 

「一見まともだけど、ぜんぜん気が配れないやつ」

 

になっちゃうな笑。

 

あ、でもさ、エンジニアとかはさ、結構身なりを気にしないけど、仕事できる人って結構いるよね!たぶん自己中でも成果を上げることができるからなのかな?

 

おれ、エンジニアタイプなんだなー爆笑

あの日も今日のようなそよ風の吹く日だった。

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たまにやたらとでかい蜘蛛の巣(10mくらい!?)があるけど、あれどんなやって作ってんのかなーと、昔から不思議に思ってた。

 

学生時代、電車通学のため西鉄花畑駅のホームで電車を待っていたら、そよ風に乗って線香の煙みたいなのが、ゆっくり風下に向かって流れていた。

 

なんだこりゃと思って、よく見てみたら駅の看板の上に蜘蛛がいて、そいつが吹き流していた糸が細い煙のように見えたのだった。

 

なるほど、こうやってあんなでかい巣を作るんだなと感心してたら、その蜘蛛の糸が反対側のホームで電車を待ってるおっちゃんに着弾して、おっちゃんがめっちゃ振り払ってた。

 

おっちゃんがかわいそうだと思った。

 

そうあの日も、今日みたいな気持ちのいいそよ風が吹く日だった。

 

こんな日はいつも、見えない何かと戦っていたあのときのおっちゃんの姿を思い出す。

 

 



終わり。

あのSNSーmixiーは今?? 

トップの記事がいつまでも鼻水についての記事ってのは、ちょっと問題だったので、さくっと投稿。

 

今日は休みですることもなかったので、久々にmixiを覗いてみました。

 

最後に記事を更新したのは5年前。意外にも社会人なった後もちょっとやってたんだね。

 

何年も前に書かれた自分の日記やら、10年前に書かれた自分の紹介文やら、もはやちょっとしたタイムカプセルです。高校の部活の部長やらサークルのキャプテンやら、いったいいつの肩書きかと笑

 

私は結構長文の日記を書くのは好きなので、mixiは得意なプラットフォームだったのです。
でも、当時勢力を増してきていたtwitterやら、facebookやらを意識しすぎてどんどん自分のよさをなくしていくmixi

多くの人がmixiを見捨てていく中、私もだんだんmixiを離れていきました。

匿名なので、より投稿しやすく盛り上がりやすい地域コミュや趣味コミュなど、絶対にfacebooktwitterにはなかった長所があったにもかかわらず、両者に似せた仕様にしてしまい、本格的にユーザーを手放すことになってしまったと思う。

 

自分も地域コミュで歯医者さんとか美容室とか口コミで探してたから、ほんと残念極まりない。

 

最近はfacebookにも似たような機能が出てきたけど、やっぱり実名だと投稿者が固定されるというか。実名だとお互い批判もできないから、かまってチャンみたいな人の自己満低レベルな記事も多くて使えないんだな。

 

久しぶりに覗いてみたら、その自分の強みに気づいたようで、匿名コミュを前面に出すようにレイアウトとかも変わってるみたい。

また、ユーザーが戻ってきてくれれば、便利なSNSになると思うんだけどな。

 

 

ちなみに私はほぼすべてのSNSをやってます。それぞれ特徴が違うので、用途によって使い分けてます。

 

facebook:メイン。とにかく外面意識。より詳細な名刺として。
twitter:思いつき。一発ギャグ。下ネタ。スルーされてちょうどいいようなこと中心。
instagram:特に主義主張のない画像。画像単発等。
ブログ:自分の考え事を取りとめもなくまとめて、しれっと公開する。

 

mixiもいまや、ほとんど閲覧されてないだろうから、割と自分が思っていることを素直に書きやすいなと思った。

 

これからもたまーに使ってみようかな?

鼻水の役割から考える鼻水の止め方

私はアレルギー性鼻炎です。

 

ほこりやカビが舞っている空間に立ち入ると、たちまちくしゃみと鼻水が止まらなくなります。

部屋で快適に暮らすためには、きれいに掃除をしなければなりませんが、掃除をしようとするとどうしてもほこりが舞ってしまい、結局くしゃみが止まらなくなります。

当然、マスクをして掃除に臨むわけですが、なんだかんだ隙間から入るほこりでくしゃみが出ます。

 

あまりにくしゃみ・鼻水がひどいときは、鼻をかむのも面倒なほどだったので、家の掃除などあんまり人に見られないシーンでは、マスクをしたまま鼻水が出るのを放置することにしました。

 

そーすると、マスクの中は当然ぐちょぐちょになるのですが、慣れるとだんだん気にならなくなってきます。

 

で、最近ふと思ったのですが、こうやって鼻をかまずに鼻水を放置していると、割とすぐ鼻水が止まっているような気がするのです。

 

そこで仮説を立てたのですが、

 

「鼻水が垂れることで、粘膜を拡張する機能があるのではないか」

 

と思ったのです。

 

つまり、鼻から吸い込まれる空気に含まれるほこりが、鼻水ゾーンによってキャッチされる。

 

それで、鼻にほこりが入りにくくなって、鼻水が止まる。

 

という理屈です。案外それっぽくない??

 

私は、この理論を「鼻水拡張粘膜理論」と名づけました。

 

「鼻水がたれていると汚く見える」「鼻水は気持ち悪い」

 

という思い込みで、人類は鼻をかんでしまうのですが、それと同時に鼻水が本来果たそうとした任務を終える前に、フィールド外に取り除いてしまっているのかもしれません。

 

だから、体は必死に鼻水を出し続けるのかも。

 

そう考えると、私たちは自然の摂理に反したことをしているのかもしれませんね。

 

あと、鼻水ってほかの事に集中し始めると止まったりしますよね?

鼻をかむことをあきらることで、作業に集中でき、結果鼻水が止まるのかもしれませんね。

 

 

ということで、鼻水が止まらなくなったときは、マスクをした上で、あえて放置してみるとすんなり鼻水が止まるかもしれませんよ??

 

という謎ライフハックでした。

保険の営業から学ぶ、マニュアルと経験について

私は生命保険みたいな後ろ向きの投資が大っ嫌いです。

 

特に私のような独身貴族にとって、病気になったり、障害を持ったりしたとしても、基本的に自分以外誰も困らない。

 

なので、そういうことに投資するくらいなら、そもそもどうしたら病気にならないか?どうしたら事故を減らせるか?といったことに投資するほうが、効力感が得られて気分が前向きになるような気がする。

 

たとえば、がんの最先端の研究に取り組んでいる科学者や、事故を引き起こさない自動車を開発しているエンジニアを応援する、なんてことができれば素敵ではないか?

 

保険の営業いうと、いたずらに病気や怪我をするリスクばかりを強調して、不安をあおっているくらいしか方法がないからね。

 

というか、たとえ保険に入ったとしても、怪我や病気で体が動かなくなるメリットなんて全くないのだから、保険に入ろうが入るまいが、全力で健康を維持することに注力することに変わりはないんです。

 

 

とは言ったものの、保険嫌いだとひとつ困ったことがある。

それは、「保険の営業の女の子と仲良くなれない」ということである。

 

保険は大嫌い、でも若い女の子は大好き!

 

この二律背反が私の中にゆがんだ感情を生み出すのだ。

 

具体的にどういうことかというと、保険の女の子がフロアをうろつき始めると、ちょっとかまってほしそうにそわそわするけど、いざ保険の話を聞いてるとだんだんイライラしてくる。

 

そうすると、保険の女の子は距離を置くようになるが、それはそれでやっぱり少しかまってほしい。

 

という、超絶面倒くさい顧客の出来上がりである。

 

 

ちなみに、保険の女の子に興味があるのはもうひとつ理由がある。

 

「マニュアル」である。

 

3年内の離職率が8割とも言われるこの業界で、新人にノウハウを叩き込むにはこれが必須であるはず。

 

逆に定年まで働くのが当然の職場では、「何事も経験」という言葉が多く使われると思う。

 

私の職場は後者の傾向がとても強い職場で、身の回りの上司がこの言葉を使うのをよく耳にする。

 

確かに経験は大事。けどね、本当にそれってマニュアル化できないことなの?

 

って、すごく思う。仕事をする上で、どういう経験をつむことができるか、というのはたまたまどういう仕事にめぐり合ったか?ということに規定される。

 

ということは、自分でスキルアップに運要素が絡むということだ。

 

それに、「いい経験」とは、大体の場合「失敗から学ぶ」ということだと思う。失敗自体は悪いことではないのだが、たまたまその失敗に巻き込まれた無関係の顧客からすると、いくらか釈然としない。

 

「失敗から学ぶ」ことが「いい経験」になるのは、自分の行動と、結果の因果関係を強烈な刺激つきで体感できるということだが、それとて失敗経験をきちんとリアリティのある記録として、共有できればわざわざ失敗する必要もない。

 

「何事も経験」

 

というと、なんとも含蓄に富んだ表現だが、本当にそうなのか?

単に経験を知識レベルまで一般化することに失敗しているだけではないのか?

 

 簡単に経験という言葉に逃げないようにしたいものである。

 

普段からそんなことを考えていることもあって、彼女らがどんな育成制度やマニュアルを基に成長していっているのかとても興味があるのだ。

 

ちなみに、保険の女の子に保険の不要であることについて理屈付けて説明していると、ある一定のラインから、保険の女の子からえらく褒められるようになる。

 

たぶん営業マニュアルに、私のような変に理屈っぽい顧客に対してはこう対応しろと書いてあるに違いない。

 

「おだてて調子に乗せろ」

 

褒められるのはやっぱり悪くないものである。