本妙寺、寺フェス復活!
寺フェス復活来たー!!!
https://m.facebook.com/terafes.kumamoto/?locale2=ja_JP
本妙寺は加藤清正の菩提寺なんだけど、意外と知られてない隠れた名所だと思うのよ。
寺フェスは地震前行ったけど、堅苦しいお寺のイメージをぶち壊すサイコーにイカすイベントだった。
http://hokusoemi.hatenablog.com/entry/2014/10/31/000000
http://hokusoemi.hatenablog.com/entry/2014/11/19/000000
海外からもたくさん遊びに来てたし、地元民にとっても、普段ややクローズなお寺で遊び倒せる良い機会だったよ。
趣のある参道や境内に、個性的な出店が並ぶのも素敵だった。
多分、お寺の人たちは、色んな想いを持って一生懸命企画してたんだと思う。
参加しててそれが伝わってくるのが何より良かった。
寺社仏閣の復興に関しては、東日本のときも問題になってたみたいだけど、国指定とかじゃない寺社仏閣の文化財は、政教分離の関係で行政の支援が得られにくいわけ。
そんで、多くの寺社仏閣が傷んだまんまなんだよね。
ここも例外じゃなく、あちこち壊れたまんまで、下手すりゃ安全すら確保できない状態(余震さえ来なきゃ全然平気)。
そんなわけで、会場は本妙寺じゃないけど、これで本妙寺復旧に弾みがつけばいいなー(^∇^)
また、坊主サラウンドステレオが聴けるのを楽しみにしよう。
施工の神様、いいねー。
ちょっとよくわからんところもあったけど、良記事だと思った。
個人的にも、「職人技」で片付けられている、形の見えにくいスキルを、「テクノロジー」「マニュアル」「仕組み」に落とし込んでいくことは分野を問わず重要だと思っている。
そうそう、この「施工の神様」なんだけど、本当にいいWebサービスだと思う。
ベテラン技術者の過去の苦い失敗事例や、この記事みたいな業界の今後の展望を述べた記事だったりと普通に勉強になる内容に加えて、「こんな技術者はダサい」とか、「建設現場あるある」みたいな読みやすい記事もあり、実に興味深く、かつ読みやすい。
あんまり情報発信とか盛んでない建設業界にあって、異色なメディアだと思う。
ちなみに、このサイトの記事を読むようになってから、Web広告が現場監督の求人広告ばかりに笑
建設業界は本当に人が足りてないんだなと思う。
すまんな、一級土木の試験はめんどくさくてすっぽかしてしもたんや笑。
このサイト、最初は行政がPRの一環でやってるのかと思ってたけど、調べてみるとリクルート系の会社が運営してるみたい。道理で偏りなく、誰でもとっつきやすいように工夫されているわけだ。
先にも述べた通り、建設関係はまだ情報発信と共有が弱い気がしている。言葉にしにくい「経験」がものを言う分野にあっても、きちんとそれをなんとか形にして残して、共有することでもっと世の中よくなると思う。
そんなわけで、人的資源が流動性を増していく中で、結果としてこう言う風なサービスが台頭してきたのは、とてもいいことだと思う。
もっと広がればいいな。
なんで行政の「財政」を勉強するのか?
行政は税金を徴収し、それを社会に効果的に配分するシステムだと思っている。
その使途は、住民の代表が話し合って、やりたいこと、やるべきことの大筋を決めて、お役人が法律にのっとりながら、具体的にどういう方法で実施するかを考え、実行に移す。
そのシステムにおいて、首長や議会、法律というのはが、強い影響を及ぼすのはなんとなくわかる。
が、しかし、このシステムにおいては、議会や法律と同じくらい強い仕組みがある。
それが、「財政」すなわちお金である。
行政の長である首長、住民の代表である議員、そしてそれらによって決められる法律や条令が行政においてものを言うのは間違いないのだが、たとえ如何に強い影響力を持っていたとしても、「金がない」と言われてしまえばどうしようもない(借金はできるっちゃできるんだけど)。
行政においては、この「ない袖は振れない」という財政由来の強力な物理法則が適用されているのだと思う。
一方、公務員はこの「税金再配分システム」に関する専門家であり、エンジニアだと思っている。
だから、専門家としてこのシステムに関する強力な保存則「ない袖は振れない」の影響を知らなくてはならないと思っている。
特に、この「税金再配分システム」を変えたい、よりいいものにしたいと考えている公務員(エンジニア)は絶対に知らなくてはならないものだと信じている。
今、福岡市の職員による財政出前講座が全国で大好評を博している。
これは、世間が行き詰る中で、本当に世の中をどうすればよくなるのか知りたがっている人がたくさん居て、そのために必要な知識がほしいと思っている人が居るという意味なのではないだろうか?
ただ、正直に言うと私はそんなものは知っていて当然、むしろ今までそういう教育をするという発想がなかったことがまずかったのだと思う。
だから、まずは自分がこの財政の仕組みを一刻も早くマスターすることが課題だと思っている。
人生とは片付けである。
「片付かない」というのは、「処理方針が決まっていない」ということであり、「決着がついていない状態」におおむね等しい。
逆に言えば、「片付ける」とは「決着を付ける」ことなのである。
一方、悔いのない人生を送るためには、身の回りの物事に一つ一つ「決着を付ける」ことが大切だろう。
さすれば、「人生とは片付けである」といっても、決して大げさな表現ではないだろう。
もうちょっと、限定的な話をすれば、仕事をすることもかたづけである。
仕事をしていて、「自分の仕事に関係あるか、ないかよく判断できない書類」や「多分、関係ないと思うけど、なんとなく捨てられない書類」が机の周りに積んであったりしないだろうか?
捨てられない書類や、収納場所を決めることができない書類があるということは、不安要素が仕事にあるということだ。一つ一つの書類の重要度は低かったとしても、そういうちょっとした「不安要素」が机の上に見える形で積上っていくことは精神衛生上、極めて良くない。
そのような状態を抜けるためには、その「いるかいらないかよくわからない書類」をじーっと見つめながら、「俺は具体的に、何が不安なんだ」「どうすれば、この書類を目の前から消し去ることができるのか?」ということを考え抜くことが大切だ。
処理方針が決まってしまえば、その書類を捨ててしまうか、特定の場所へ保管するかの判断は容易くなる。
もし、どうしても判断がつきにくいときは、1月とか、2月とか期間を定めた上で保管するといい。このとき、保管する場所は適当な箱や、机の一番下の引き出しに突っ込むとか、場所さえ決めていれば適当な場所でいいと思う。
んで、1月か2月に一回くらいその場所を見返してみて、「あ、これやっぱりいらんな」と感じればすてればいい。
多分残してた書類の9割くらいは、捨てることができると思う。
実質、パソコンの「ゴミ箱」のように簡単に復活できるゴミ箱になるのだ。
こうすれば書類を捨てることに対して精神的抵抗感がなくなり、判断が早くなる。
こうやってとにかく、書類の処理方針を決めて、捨てるorしまうを徹底していると、必然的に机の上から物がなくなっていく。
逆に仕事に追われて、処理が追いついてこなくなると、机の上がどんどん散らかっていく。散らかっているのは、書類ではなく、本質的には「不安要素」である。
だから不安を払拭するために、とにかく片付けたくなる。片付くと、とても気持ちがよくなる。
だから、一層かたづけが好きになって、仕事もはかどる。
という好循環が構築されるのだ。
だから私は、仕事をすることは片付けることだと思っている。
で、人生の場合はどうだろうか?
仕事においては、片付かないもの=不安要素であったが、人生においてはどうだろう?
私は、人生においては、片付かないもの=未練があるものだと思っている。
例えば、お気に入りだったけど、今はくたびれてしまって着れない服というのは、とても捨てることが難しい。
これは、その服の思いでがそうさせる訳だ。だけど、着ない服の存在価値なんて実際全くない。
そういうときは、その服を供養してやることで、それにこもった未練を成仏させてやることが有効だ。
具体的にどうするかというと、最後に自分一人でファッションショーをするのだ。その服でできる最高のコーデをした写真を撮る。
ハンガーで組み合わせるだけでもいいかもしれない。
んで、その服の思い出や、なんでその服が好きだったのかを綴った記事と一緒にブログなどに載せる。
そうすると、その服に残った未練が、文章と写真という別に形に乗り移り、だいぶ捨てる勇気が出てくる。
あとは、感謝の言葉とともに、葬って上げるのだ。
あとは、コーデを探して写真を撮ろうとしてみると、以外と合うコーデがなかったり、改めてくたびれすぎて着れる物じゃないなとあきらめがつく場合もある。
それでもどうしてもモノを減らせないという人は、「捨てないことにも金がかかる」ということを意識すべきだろう。
たとえば、12畳で月5万円の部屋を借りているとしよう。もし借りに、捨てられない何かが、1畳分のスペースを潰していたとすると、その捨てられないものの為に、大体月4000円くらいのコストが発生していることになる。
「もったいない、何かに使うかもしれない」
そんな気持ちで残しておいた物に逆にコストをかける、というあべこべの状態になることも頭においておくとよい。
あとなにより、「捨てられないもの」とは「未練があるもの」ということである。未練がある物が、部屋中に転がっていることは、実に風水的に良くない感じがしない??
あとは、「いつか読む」とか「いつか勉強する」とかで本が捨てられないパターンも多いと思う。これについては、今のご時世、「検索が不可能な情報はほぼ役に立たない」ということを覚えておこう。
逆に言うと、捨てたくないのなら、evernoteとかのアプリでデータ化して、検索可能な状況にしておけば、そのうち日の目を見る日も来るかもしれない。
そうそう、あとは一つ意識すべきことは、「認識できないものは存在していないことに等しい」ということだ。よく、深くしまいすぎて引っ越しまで使うことがなかったということがある。
その間、それは持ち主にとって存在しなかったのと同じである。
それでもその間困らなかったというなら、そもそもそれは最初から必要なかったのだ。
ということで、断捨利について長々と述べて参ったが、これもいわば思考のお片づけである。
普段から、とりとめもなく頭の中をぐるぐると回っていた持論を文章にして棚卸しすることで、思考を保存することができ、絡まった糸がほどけるように頭の中がすっきりするのだ。
みなさまにおかれましても、おかたずけで未練のない人生を送ることをお祈りしている。
ポイント
「片付ける」とは「決着を付ける」こと
仕事においては、「散らかる書類」は「不安要素」そのもの
人生においては、「片付かないもの」は「未練があるもの」
「捨てないことにも金がかかる」
「検索が不可能な情報はほぼ役に立たない」
「認識できないものは存在していないことに等しい」
税金で沖縄にAKB総選挙呼んだ問題について
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-17564.html?sp
AKB総選挙に税金が投入されたことが問題みたいになっとるけど、よく読んだら正確にはAKBに直接金をぶち込んだのではなく「AKB総選挙を沖縄に誘致する」のに税金を投入したわけ。
確かに、悪目立ちしそうな支出してるとは思うけど、程度の差はあれ、イベントの誘致や、芸能人の力を借りることは、地方行政の観光振興とかでよくある話。
問題の本質は、「AKB呼ぶのに税金を突っ込んだこと」じゃなくて、せっかく沖縄の振興のために国から配分された税金が、安易にカンフル剤みたいな使われ方しとることなんだけど。
「安易に」と言ったけど、それも多分その時の行政関係者とかは悪気なく、真面目に一生懸命考えて(ひょっとしたら疑問を感じながらも)やったんだと思う。
さらに背景には、単年度単位でしか計画を立てづらい今の予算制度とか、その割に多額な沖縄振興予算(それでも、かなり減らされてるらしいし、沖縄振興予算自体もいろんな事情が絡まってる)とか、もっと根が深い問題があるはずなんだけど。
そんなんも行政の仕組みに深く携わった人しか想像できんよなーとか。
そーやって結局、枝葉の部分ばっかり叩かれて、本質的な部分は改善されないまま似たようなこと繰り返すんだろーなと思う。
何かよろしくないことやらかしたとしても、必ずしもどこかに諸悪の根源みたいな奴がいるわけでなく、そういうことがいつか起きるべくして起きるような仕組みになってるから起きるのだと思う。
だから、仕組みを常にどう改善するかを考えなくちゃいけんのだと常々思ってる。