ネット廃人はネット断ちすることができるか?
スマホを変えることにした。
なんでも、次世代のスマホはsimカードがさらに小さいらしく、乗り換えるためにはsimカードを作り替えなければならないそうだ。
私は海外旅行で現地のsimカードを買うようにしているので、これってそういう海外の現地simと互換性あるのかねとか思いながらも、どうもsimカードの小型化は全体的なトレンドのようであるので、小型simのスマホに乗り換えることに。
で、新しいsimカードの作成を依頼したら、その翌日に急に今のスマホのsimカードが無効化された。
と、いうことはそれが届くまで、ネットなしの生活を送らなければならない。
どうせ荷物はいつも通り、時間帯に家にいなくて不在票になるパターンが見えている。
これは、しばらくネットなしだぞと。
全く、事前告知くらいしてほしいものだ。
もう彼これ10年くらいは、快適な速度のネット環境下に生きてきた私としては、なかなか珍しい体験になりそうだ。
もはやネットは、私の第2の脳といっても過言じゃないくらい、生活の、そして体の一部となっているのだ。
果たしてネットなしにこの膨大な時間を過ごすことができるのであろうか?
それは、まるで、ラマダーンの修行のようだ。
さて、いざネットなしの生活をしてみると、それはそれで気づきが多いものだ。
まず、気持ちがとても落ち着くということに気が付いた。
まるで、静かな海辺に立っているかのような、穏やかな気持ちになれる。
普段、いかにネットから雑念を受け取っているかということだ。
2chのコピペブログ、twitter、facebookといった普段のネットサーフィンのルートには思い起こせば、私の脳みそをもやもやさせるような記事も少なくない(その記事が正しいかどうかの問題ではない。ただ私にとって素直に受け入れることができるかどうかが問題なのである。)。
もちろん、面白い記事や勉強になる記事も数多く、それを楽しみにしてネットサーフィンに興じているのはおそらく間違いない。
ただ、同時にそれだけ多くの雑念も、インターネットから体内に取り込んでいるのだ(最近やたらと目障りなターゲット広告も、私の脳みそにノイズを与えているのかもしれない)。
あと一つ気づいたことは、日ごろぶち当たる簡単なトラブルや、ふと思いついた疑問のうちかなり多くを、Google検索で解決しようとしていることである。
さっき、バドミントン帰りにクールダウンがてら、近くのコンビニに夜食を買いに行ったときのことだ。
今日のハードな試合に、私の足は限界を迎えていたらしく、コンビニの前の道路を渡る横断歩道のど真ん中で、足を攣ってしまったのだ。
しかも、普段よくあるふくらはぎのこむら返りではなく、むこうずねの筋肉が攣ってしまったのだ。
何とか渡り切った後、歩道の淵の縁石に座って痛みに耐える。
始めて攣る場所なので、痛みも相当のものである。
しかも、むこうずねなんて、どうやってストレッチすればいいんだ…。
誰かこの苦痛から解放してくれ!
私はその時頭の中に3つの言葉が浮かんだ
「むこうずね 攣ったとき 伸ばし方」
しまった、ネットないじゃん!!
結局、いろいろ苦しみながらも、いろんな方向に足を曲げることを試してみて、痛みが緩和されるような伸ばし方を自力で発見することができた。
が、やはり日ごろトラブルに遭遇した時、頻繁にGoogle先生に助けを求めているのだ。
あと、帰り道にもふと、疑問が思いつき、それを解決するような検索ワードが頭の中に浮かんだが、パソコンを開くまでにその疑問が何だったかも忘れてしまった。
その疑問を解決していれば、思わぬ知見が得られたかもしれないのに、ちょっともったいない気分だ。
・・・という具合に、まだほんの半日だが、日常にネットがないというだけで、ちょっとした行動の変化がたくさんあった。
ネットがない状態は、私がネットのないスマホのように機能停止してしまうのではないかとも大げさに思っていたのだが、案外そうでもないし。
ただネットがないというだけで、普通に暮らしているのが、お寺で生活しているかのような、質素ですがすがしいものに感じられる。
もちろんこの情報化が進んだご時世に、ネット断ちのすべてがプラスに働く、ということはあり得ないが、たまにネット断ちすることで、時間と脳みその使い方が改善できるのではないかと思った。
(ほかにもちょっとした隙間時間に、スマホで時間をつぶせないので、家の家事や部屋の片づけがはかどるというプラス効果もあるみたいだ)。
新しいスマホが届くまで、ネット断ちが自分に脳みそと生活にどう働くか、しばし実験である。