バドミントンに愛を…(なぜ運動音痴がスポーツをするのか?)
前にこういう記事を書いた。
なんか、テンション上がって書いたクソ記事である。
読み返してみても、「で?」という感じである。
でも、この記事の中でバドミントンをしていたことが、一見関係のないような様々な出会いにつながったようなことを書いているが、バドミントンというスポーツからいろんなものをもらったということは、私の中でとても重要な事項である。
今日は運動音痴が、わざわざ苦手分野であるスポーツに挑戦したことがどういう意味を持ったかということをちょっと考えてみたい。
もし、仮に中学や、高校に進学するときに、運動部に入るべきかどうかを迷っている中高生がいるなら、ぜひ伝えたいことだ。
この記事を書いている私は、現在32歳であり、自分の怠惰な性格を考慮すると、正直バドミントンの実力面での成長はほとんど望めないような状態である(怠惰な性格を直せという意見は認めない。怠惰なので。)。
仕事から解放された貴重な時間をバドミントンに割くことは、今の私にとってどれだけの価値があるだろうか(おまけにバドミントンをしたあと2,3日は疲労と筋肉痛を引きずることになる)。
せっかくなら、続けたいという気持ちもあるが、正直ちょっと飽きてしまっているのも実のところ。
でも、これまでバドミントンにいろんなものをもらったのは本当だ。
そこで、今一度私がバドミントンから何をもらったのか、ちょっと振り返ってみようと思う。
バドミントンを始めたのは、小学6年生のころである。
基本的に、スポーツがからきしダメな私だが、野球やサッカーといった、ボールや人との接触に恐怖感のないバドミントンならできるんじゃないか、あるいは、スポーツ人口の少ないバドミントンなら、周りの運動できる連中から感じるプレッシャーも少なく、和気あいあいとプレーできるのではないか、というのが始めたきっかけである。
ほかにも、体育でやった時に思ったより楽しかったから、という理由もあったが、我ながら、情けないばかりだ。
それでも、本質的に運動が苦手なのは、当時の自分も十分理解していたはずなので、ヘタレながらも、苦手分野に挑戦しようとした意気込みは少しは褒めてもいいと思う。
そのあたり、当時の私にどういう感情の機微があったのかはもはや思い出せないが、やっぱりバドミントンを舐めていたのだろう。
ただ、その判断は本当に自分の人生にプラスに働いたと思う。
中学以降も当然ヘタレの私は、少しなりとも周囲に対するアドバンテージのある、バドミントン部を選択した。
新しいことに挑戦して、その中でコンプレックスを積み重ねるのはまっぴらゴメンだったのである。
しかし、まだ黎明期であり、クラブチームなどもほとんどなかった当時のバドミントン事情においては、そのわずかなアドバンテージはかなり役に立った。
運動部のリーダーは、たとえどんなにリーダーシップが強くても、最低限度の実力を持たなければさすがに務まらないが、私はその最低限度の実力を持つに足りたのである。
結果、中学、高校、大学(サークル)と、私は副キャプやキャプテンを歴任することになる。
当然、私がキャプテンになるような弱小環境(特に中学、高校)だったので、中学、高校においては顧問や指導者は実質不在であった。
もちろん、精神的に未熟な私は、組織の運営において今思い出しても痛ましい失敗を繰り返すのだが、それも含めてよい経験だったといえるし、中高において、数々の失敗を繰り返した後の大学のサークル運営はなかなか悪いものではなかったのではないかと思う。
人とのつながりにおいても、バドミントンを通じて直接仲良くなったりした人はもう数百人というレベル(大学のサークルだけで軽く150人くらいいる)だし、先に紹介した過去の記事のように、バドミントンをしていたことが回りまわって、交友関係の輪を広げた例もある。
また、バドミントンをやることによる直接的なメリットもあった。
特に、メンタルのマネジメントに関してはすごく役に立ったと思う。
ほかのスポーツをよく知らないから、相対的な話はできないが、バドミントンはかなりメンタルの影響を受けるスポーツだ。
自分のメンタルの調子の良しあしが、普段のたゆまぬ練習の結果を軽く覆したりする。
感覚的には、客観的に見て1枚上の実力の相手でも、こちらのメンタル状況次第では勝ててしまう(いわゆるゾーンというやつか)。
逆に、自分の気持ちが弱気になったりすると、普段だったら負けないような相手にも簡単に負けてしまう。
当然、その両者がタイミングよく合わさると、大どんでん返しすらありうる。
何度も言うが、私はヘタレなので、バドミントンを始めた頃には、相手が少しでもチャラい態度や、やる気のなさげな態度を見せると、途端にビビったり、こちらもやる気をなくしてしまったりと、調子を崩してしまっていた。もちろん、緊張もめっちゃする。
でも、まあそれも長く続けてくると、そのメンタルのマネジメントまで含めて実力なので、具体的にどうメンタルをコントロールするかを考えるようになった。
チャラい感じのプレイヤーは特に苦手だったが、何度もこのようなタイプを相手にする間に、その特徴を分析することができた。
メンタルコントロールの一例として紹介したい。
この手のタイプのプレイヤーの特徴として、
①とても運動神経がよく、自分に自信を持っている。
②だから、大胆なプレイや行動をとることができる。
ことが前提にある。
だから、逆に一度何らかのきっかけで屈辱を与えてやれば、その自信の前提が崩れ、ふてくされて集中力を切らす場合が多い。と私は分析している。
逆に自己肯定感の低いヘタレは、バドミントンにおいてしてやられたときに、崩れ去るプライドがないので、その点ではメンタルは安定しているともいえると思う。
これらから、ラリーの間で何とかして、相手の癖を読み、「残念お見通しだ」とばかりに相手の好きなパターンを打ち破ってやるのだ。
もちろん、それに成功したら、オーバーリアクションで喜んで、満面の笑みで悔しそうな相手の顔を覗き込むことを忘れない。
まあ、なんちゃいえばメンタル攻撃だ。そして、このメンタル攻撃は、効いてるか効いてないかはあんまり関係ない。
メンタル攻撃を仕掛けることで、自分がメンタル上優位にあると思い込むことで、自分のメンタルを安定させることが重要なのだ。結局、確実にコントロールできるのは、自分だけという話。
これが日常においてどう役に立っているかというと、まずメンタルの大切さを知っていること自体が、とても重要だ。
日ごろから、失敗したり、怒られたりして落ち込むことも多いが、基本的に失敗したことに対してきちんと反省することができているのであれば、あとは落ち込んでいるメリットは何一つないのだ。
失敗に対する事後策をまとめ終わったら、「失敗したけど、どうせほかの人も失敗するしな」とか、「普段からプラスアルファで頑張ってるから、多少の失敗は問題ないだろ」とか「自分を叱ったりした相手を脳内でバドミントンでぼこぼこにしたり」とか。
実力差以外のあらゆる条件が、みな全く同じであるバドミントンコートの上に人間関係を並べてみると、結構落ち着くことも多い。
まあ、こういう具合に私はバドミントンに大変お世話になったのだが、今後この人生の恩人のバドミントンとどう向き合おうか。
今日は職場関係者でバドミントンをしてきたのだが、なかなか楽しかった。相変わらずへたくそだったが。
でも、それだけじゃだめだ。人生の生産性を高めるために、まだ恩人のバドミントンから得られるものを搾り取らなければならない。
ということで、今後はまだバドミントンでやれていないことをできる限り試してみようと思う(走り込み以外で)。
この間は、初めて自分のプレーを動画に収めた。絶対なにか効果があるとは思ったが、ちょっと恥ずかしいと思ってこれまでやったことがなかったのだ。
あとは、プレーの分析をしようと思う。
自分の得意なコース、苦手なコース、あきらかに得点に結びついていないプレー、逆に案外効いているプレーなどを分析することができれば、まだ伸びしろはあるはず。
面白いのが、そう思ってプレーの記録をするアプリとかを探そうと思ったのだが、Ipadでのみ使えるアプリ1つを除いて、実用的そうなものはなかった。
結構、作ろうと思えば簡単にできるはずなのにだ。
そういうアプリは、現在クラブチームなどと組んで開発中だとのニュース記事もあった。
こういうのって、たぶん一番先に使いやすいものを思いつけば、それなりに収益につながったりもするんじゃないだろうか?
もうちょっと発展させて、ランニングアプリのように、SNSにして世界中のプレイヤーデータを集めて、クラスタリングしたり、プレイスタイルごとに特長や弱点を見つけ出したり。
まだバドミントンはまだ私に何かを、与えてくれるみたいだ。
明日もまた、筋肉痛だろうな。