【調査】川辺川でシュノーケリングはできるか?

 

hokusoemi.hatenablog.com

 

前にこんな記事を書いた。

 

読み返したが、なかなか良い記事だ。

要は、

 

①まったりだらだらすることも休憩の意味では必要なことなのだから、自分の人生のタスクの進捗とバランスを取りながらだらだらすればよい。

②具体的に、タスクとだらだらのバランスを評価するために、平日1アクション分、休日3アクション分の時間を持っているとして、そのうち自分がどれだけダラダラに時間を消費しているかを可視化すること。

などを提言している。全く実行できていないが。

 

 

さて、今週の土日もそんなダラダラしてしまいがちな用事のない週末だった。

 

しかし、このままでいいのかという、わずかな危機感が私の体を起き上がらせたのだ。

 

ちょっと前であれば、夏の晴れた日は海にシュノーケリングに行っていたものだが、最近は片道3時間かけて天草の西の果てまで車を運転する情熱が失われていた。

 

もうちょっと近場でシュノーケリングできないものだろうか。

 

ということで、熊本最高の清流とうたわれる五木村の川辺川に、車で2時間弱かけて出かけてきたのである。

 

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今日選んだのはこのポイント。なかなかの透明度だし、流れも浅く緩やかなので、事故も起こりくそうだ。

上の写真では、バンジージャンプが行われていた。私がいた2時間ほどの間に数人のジャンパーがいた。

 

1人で川にシュノーケリングしに来るええ年のおっさんと、ただただスリルを求めて端から飛び降りる人たちのどちらが狂っているだろうか?

 

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うーん、確かにきれいだけど想像していたほどの透明度はないかな?
どうしても流れがあるせいで、砂が舞ってしまうようだ。

そして、川魚君、君たちはほんとに地味だ笑。

 

私はもともと海よりも川派なので、当然川魚も好きなのだが、いかんせん写真にすると地味なのだよ。

 

流れを読み、流れに遊ぶ姿を眺めるているととても見とれるようなのだけど、やっぱり地味なのだよ。

 

 

甲乙つけるつもりはないが、半月前に私が潜った天草の海の写真もついでに載せておく。 

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やっぱりこっちのほうが映えるのよねー。

 

まあでも、こっちもやっぱり天草より近いし、淡水だから後のべたつきも少ないし、思ったほど水も冷たすぎないし、ありっちゃありやな。

 

そういうわけで、さて帰るかと思ったら、一つ前の記事の通りメガネを見失ってしまったわけ。

1時間探したと書いたけど、実はあまりに見つからなかったので一度家に帰って、別のメガネを装着して探してようやく見つかったんだよね。

 

だから、この川辺川にも2回来てるのよ。

 

2回目は川に入らなかったから、せっかくだからと水切りを練習してきた。

 

水辺の多い環境に生まれ育ったから、これは得意なのよね。

 

100投くらい投げて、何となくおっさんの体でどう投げればいいのかをつかんだ。

 

結構いい運動になったかもしれない。何より、物を思いっきりぶん投げるのはストレス解消になる。

水面をすべるように石を飛ばせたときは、何とも言えない爽快感があった。

 

 

そうそう、帰りにいい発見があった。

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白滝公園。ここには実は「滝」はない。石灰岩の巨大な白壁を滝と例えているのだ。

 

さっきよりもかなり上流で、水量が少ないので泳げないだろうと最初からスルーしていた。だが、実際にはかなり深い淵があり、かなり潜り甲斐がありそうだ。

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着いたのがすでに夕方で、暗いせいでそんなに奇麗に見えないが、実際は最初のポイントよりも透明度が高い。

 

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その透明度をコミットしているのが、近くの鍾乳洞から流れ出る湧水である。

写真に見える通り、ヤマメと思わしき水玉模様の魚もいた。

 

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五木村特有の、鬼のようにしっかりした施設で安心感がある。

 

というか、もっとPRすれば一大観光地になりうると思うのだが。

 

 

 

かくして、私が本来であればダラダラしていただけのはずの週末で、遊び場の調査と適度な運動ができた。

 

すっかり忘れていたけど、タスクとダラダラのバランス管理も今後はやっていきたい。

 

いい週末だった。

【難問】メガネを求めよ。

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<問1>
メガネを求めよ。(1998,京都大)
 
 
<解説>
例えば、メガネのような無機的な物体を、同じく無機的な物体である石ころがたくさん転がっている、河原のような場所に置いたとする。

もし、その状態で一瞬でも目を離すとたちまち周りの風景と同化し、再び見つけることが困難な状態になる。

ましては、「メガネを探す」、ということは現在探し手は裸眼であることが想定され、その場合ますますメガネを見つけることが困難となる。

非常にシンプルであるが、立体的なものの見方を問われる難問であるとして、その年の受験生の間で話題となった。
 
 
<参考>
出題者は、たった一瞬目を離したばかりに、メガネを探して河原を1時間以上さまようことになった。
河原に小物を直接置いてはいけない。絶対にだ。

ネット廃人はネット断ちすることができるか?

スマホを変えることにした。

なんでも、次世代のスマホsimカードがさらに小さいらしく、乗り換えるためにはsimカードを作り替えなければならないそうだ。

私は海外旅行で現地のsimカードを買うようにしているので、これってそういう海外の現地simと互換性あるのかねとか思いながらも、どうもsimカードの小型化は全体的なトレンドのようであるので、小型simのスマホに乗り換えることに。

で、新しいsimカードの作成を依頼したら、その翌日に急に今のスマホsimカードが無効化された。

まだ、新しいスマホsimカードが届いていないのに、だ。


と、いうことはそれが届くまで、ネットなしの生活を送らなければならない。

どうせ荷物はいつも通り、時間帯に家にいなくて不在票になるパターンが見えている。

これは、しばらくネットなしだぞと。

全く、事前告知くらいしてほしいものだ。

もう彼これ10年くらいは、快適な速度のネット環境下に生きてきた私としては、なかなか珍しい体験になりそうだ。

もはやネットは、私の第2の脳といっても過言じゃないくらい、生活の、そして体の一部となっているのだ。

果たしてネットなしにこの膨大な時間を過ごすことができるのであろうか?


それは、まるで、ラマダーンの修行のようだ。


さて、いざネットなしの生活をしてみると、それはそれで気づきが多いものだ。

まず、気持ちがとても落ち着くということに気が付いた。
まるで、静かな海辺に立っているかのような、穏やかな気持ちになれる。


普段、いかにネットから雑念を受け取っているかということだ。


2chのコピペブログ、twitterfacebookといった普段のネットサーフィンのルートには思い起こせば、私の脳みそをもやもやさせるような記事も少なくない(その記事が正しいかどうかの問題ではない。ただ私にとって素直に受け入れることができるかどうかが問題なのである。)。

もちろん、面白い記事や勉強になる記事も数多く、それを楽しみにしてネットサーフィンに興じているのはおそらく間違いない。


ただ、同時にそれだけ多くの雑念も、インターネットから体内に取り込んでいるのだ(最近やたらと目障りなターゲット広告も、私の脳みそにノイズを与えているのかもしれない)。


あと一つ気づいたことは、日ごろぶち当たる簡単なトラブルや、ふと思いついた疑問のうちかなり多くを、Google検索で解決しようとしていることである。

さっき、バドミントン帰りにクールダウンがてら、近くのコンビニに夜食を買いに行ったときのことだ。

今日のハードな試合に、私の足は限界を迎えていたらしく、コンビニの前の道路を渡る横断歩道のど真ん中で、足を攣ってしまったのだ。

しかも、普段よくあるふくらはぎのこむら返りではなく、むこうずねの筋肉が攣ってしまったのだ。

何とか渡り切った後、歩道の淵の縁石に座って痛みに耐える。

始めて攣る場所なので、痛みも相当のものである。

しかも、むこうずねなんて、どうやってストレッチすればいいんだ…。

誰かこの苦痛から解放してくれ!

私はその時頭の中に3つの言葉が浮かんだ

「むこうずね 攣ったとき 伸ばし方」

しまった、ネットないじゃん!!

結局、いろいろ苦しみながらも、いろんな方向に足を曲げることを試してみて、痛みが緩和されるような伸ばし方を自力で発見することができた。


が、やはり日ごろトラブルに遭遇した時、頻繁にGoogle先生に助けを求めているのだ。


あと、帰り道にもふと、疑問が思いつき、それを解決するような検索ワードが頭の中に浮かんだが、パソコンを開くまでにその疑問が何だったかも忘れてしまった。

その疑問を解決していれば、思わぬ知見が得られたかもしれないのに、ちょっともったいない気分だ。


・・・という具合に、まだほんの半日だが、日常にネットがないというだけで、ちょっとした行動の変化がたくさんあった。

ネットがない状態は、私がネットのないスマホのように機能停止してしまうのではないかとも大げさに思っていたのだが、案外そうでもないし。

ただネットがないというだけで、普通に暮らしているのが、お寺で生活しているかのような、質素ですがすがしいものに感じられる。

もちろんこの情報化が進んだご時世に、ネット断ちのすべてがプラスに働く、ということはあり得ないが、たまにネット断ちすることで、時間と脳みその使い方が改善できるのではないかと思った。
(ほかにもちょっとした隙間時間に、スマホで時間をつぶせないので、家の家事や部屋の片づけがはかどるというプラス効果もあるみたいだ)。

新しいスマホが届くまで、ネット断ちが自分に脳みそと生活にどう働くか、しばし実験である。

 

 

おっさんになると新しい音楽を脳みそが受け付けなくなる説

30歳近くなってくると、新しい音楽を脳みそが受け付けなくなる説。

 

私がその例の一つ。

 

大学生の時は、音楽CDを大量にレンタルしてきてはパソコンに落としていたものだが、社会人になってみるとそれもぱったり。

 

ただ、このまま趣味の一つがまた一つ失われるのも悲しいもので、久々にTUTAYAにCDを借りに行ってきた。

 

久しぶりすぎてカードもなくしていたし、TUTAYAにも自動精算機が導入されていることも知らなかった。

 

久しぶりに音楽を聞いてみると、なかなか悪くないもんだ。

 

音楽聞きたい気持ちを高めるのを手助けしてくれたよねづけんしに感謝したい。

 

脳みそが新しい音楽を受け付けなくなっているのではなく、そもそも仕事をしていることで新しい音楽を聴くのに割くリソースがなくなっているだけなんじゃなかろうか?

 

 

そうそう、最近、友達と交代でシェアしていたノートパソコンから、自分用のパソコンに切り替えてより自由度の高い運用ができるようになった。

 

自分用のパソコンを持つと、2chのコピペブログを漫然と眺めてみたりと、堕落した人生を加速させてしまうのではないかと思ったが、案外そうもならなかった。

 

というか、スマホだけでも十二分に堕落しつくしていたのである。パソコンのほうが画面を見やすいのと、文章を打ち込んだりするのも手軽なのと、効率よく堕落できるので同じ堕落ならパソコン使ったほうがいい。

 

ふと、思いついてまじめなことをしよう(例えばブログを書いたり、マクロの勉強をしようとしたり)とすれば、がぜんパソコンのほうが優れているので、パソコンのほうが堕落からの復活するにはいいと思う。

 

スマホの台頭により、パソコンはいらなくなったかなと思っていたけど、そうじゃなかったよ。VIVAパソコン。

バドミントンに愛を…(なぜ運動音痴がスポーツをするのか?)

前にこういう記事を書いた。 

hokusoemi.hatenablog.com

 なんか、テンション上がって書いたクソ記事である。

読み返してみても、「で?」という感じである。

 

でも、この記事の中でバドミントンをしていたことが、一見関係のないような様々な出会いにつながったようなことを書いているが、バドミントンというスポーツからいろんなものをもらったということは、私の中でとても重要な事項である。

 

今日は運動音痴が、わざわざ苦手分野であるスポーツに挑戦したことがどういう意味を持ったかということをちょっと考えてみたい。

 

もし、仮に中学や、高校に進学するときに、運動部に入るべきかどうかを迷っている中高生がいるなら、ぜひ伝えたいことだ。

 

この記事を書いている私は、現在32歳であり、自分の怠惰な性格を考慮すると、正直バドミントンの実力面での成長はほとんど望めないような状態である(怠惰な性格を直せという意見は認めない。怠惰なので。)。

仕事から解放された貴重な時間をバドミントンに割くことは、今の私にとってどれだけの価値があるだろうか(おまけにバドミントンをしたあと2,3日は疲労と筋肉痛を引きずることになる)。

 

せっかくなら、続けたいという気持ちもあるが、正直ちょっと飽きてしまっているのも実のところ。

 

でも、これまでバドミントンにいろんなものをもらったのは本当だ。

そこで、今一度私がバドミントンから何をもらったのか、ちょっと振り返ってみようと思う。

 

バドミントンを始めたのは、小学6年生のころである。

 

基本的に、スポーツがからきしダメな私だが、野球やサッカーといった、ボールや人との接触に恐怖感のないバドミントンならできるんじゃないか、あるいは、スポーツ人口の少ないバドミントンなら、周りの運動できる連中から感じるプレッシャーも少なく、和気あいあいとプレーできるのではないか、というのが始めたきっかけである。

 

ほかにも、体育でやった時に思ったより楽しかったから、という理由もあったが、我ながら、情けないばかりだ。

 

それでも、本質的に運動が苦手なのは、当時の自分も十分理解していたはずなので、ヘタレながらも、苦手分野に挑戦しようとした意気込みは少しは褒めてもいいと思う。

 

そのあたり、当時の私にどういう感情の機微があったのかはもはや思い出せないが、やっぱりバドミントンを舐めていたのだろう。

 

 

ただ、その判断は本当に自分の人生にプラスに働いたと思う。

 

中学以降も当然ヘタレの私は、少しなりとも周囲に対するアドバンテージのある、バドミントン部を選択した。

新しいことに挑戦して、その中でコンプレックスを積み重ねるのはまっぴらゴメンだったのである。

 

しかし、まだ黎明期であり、クラブチームなどもほとんどなかった当時のバドミントン事情においては、そのわずかなアドバンテージはかなり役に立った。

 

運動部のリーダーは、たとえどんなにリーダーシップが強くても、最低限度の実力を持たなければさすがに務まらないが、私はその最低限度の実力を持つに足りたのである。

 

結果、中学、高校、大学(サークル)と、私は副キャプやキャプテンを歴任することになる。

当然、私がキャプテンになるような弱小環境(特に中学、高校)だったので、中学、高校においては顧問や指導者は実質不在であった。

もちろん、精神的に未熟な私は、組織の運営において今思い出しても痛ましい失敗を繰り返すのだが、それも含めてよい経験だったといえるし、中高において、数々の失敗を繰り返した後の大学のサークル運営はなかなか悪いものではなかったのではないかと思う。

 

人とのつながりにおいても、バドミントンを通じて直接仲良くなったりした人はもう数百人というレベル(大学のサークルだけで軽く150人くらいいる)だし、先に紹介した過去の記事のように、バドミントンをしていたことが回りまわって、交友関係の輪を広げた例もある。

 

また、バドミントンをやることによる直接的なメリットもあった。

 

特に、メンタルのマネジメントに関してはすごく役に立ったと思う。

ほかのスポーツをよく知らないから、相対的な話はできないが、バドミントンはかなりメンタルの影響を受けるスポーツだ。

自分のメンタルの調子の良しあしが、普段のたゆまぬ練習の結果を軽く覆したりする。

感覚的には、客観的に見て1枚上の実力の相手でも、こちらのメンタル状況次第では勝ててしまう(いわゆるゾーンというやつか)。

逆に、自分の気持ちが弱気になったりすると、普段だったら負けないような相手にも簡単に負けてしまう。

当然、その両者がタイミングよく合わさると、大どんでん返しすらありうる。

 

何度も言うが、私はヘタレなので、バドミントンを始めた頃には、相手が少しでもチャラい態度や、やる気のなさげな態度を見せると、途端にビビったり、こちらもやる気をなくしてしまったりと、調子を崩してしまっていた。もちろん、緊張もめっちゃする。

 

でも、まあそれも長く続けてくると、そのメンタルのマネジメントまで含めて実力なので、具体的にどうメンタルをコントロールするかを考えるようになった。

 

チャラい感じのプレイヤーは特に苦手だったが、何度もこのようなタイプを相手にする間に、その特徴を分析することができた。

メンタルコントロールの一例として紹介したい。

 

この手のタイプのプレイヤーの特徴として、

①とても運動神経がよく、自分に自信を持っている。

②だから、大胆なプレイや行動をとることができる。

 

ことが前提にある。

だから、逆に一度何らかのきっかけで屈辱を与えてやれば、その自信の前提が崩れ、ふてくされて集中力を切らす場合が多い。と私は分析している。

 

逆に自己肯定感の低いヘタレは、バドミントンにおいてしてやられたときに、崩れ去るプライドがないので、その点ではメンタルは安定しているともいえると思う。

 

これらから、ラリーの間で何とかして、相手の癖を読み、「残念お見通しだ」とばかりに相手の好きなパターンを打ち破ってやるのだ。

 

もちろん、それに成功したら、オーバーリアクションで喜んで、満面の笑みで悔しそうな相手の顔を覗き込むことを忘れない。

 

まあ、なんちゃいえばメンタル攻撃だ。そして、このメンタル攻撃は、効いてるか効いてないかはあんまり関係ない。

メンタル攻撃を仕掛けることで、自分がメンタル上優位にあると思い込むことで、自分のメンタルを安定させることが重要なのだ。結局、確実にコントロールできるのは、自分だけという話。

 

これが日常においてどう役に立っているかというと、まずメンタルの大切さを知っていること自体が、とても重要だ。

 

日ごろから、失敗したり、怒られたりして落ち込むことも多いが、基本的に失敗したことに対してきちんと反省することができているのであれば、あとは落ち込んでいるメリットは何一つないのだ。

 

失敗に対する事後策をまとめ終わったら、「失敗したけど、どうせほかの人も失敗するしな」とか、「普段からプラスアルファで頑張ってるから、多少の失敗は問題ないだろ」とか「自分を叱ったりした相手を脳内でバドミントンでぼこぼこにしたり」とか。

 

実力差以外のあらゆる条件が、みな全く同じであるバドミントンコートの上に人間関係を並べてみると、結構落ち着くことも多い。

 

 

まあ、こういう具合に私はバドミントンに大変お世話になったのだが、今後この人生の恩人のバドミントンとどう向き合おうか。

 

今日は職場関係者でバドミントンをしてきたのだが、なかなか楽しかった。相変わらずへたくそだったが。

 

でも、それだけじゃだめだ。人生の生産性を高めるために、まだ恩人のバドミントンから得られるものを搾り取らなければならない。

 

ということで、今後はまだバドミントンでやれていないことをできる限り試してみようと思う(走り込み以外で)。

 

この間は、初めて自分のプレーを動画に収めた。絶対なにか効果があるとは思ったが、ちょっと恥ずかしいと思ってこれまでやったことがなかったのだ。

 

あとは、プレーの分析をしようと思う。

自分の得意なコース、苦手なコース、あきらかに得点に結びついていないプレー、逆に案外効いているプレーなどを分析することができれば、まだ伸びしろはあるはず。

 

面白いのが、そう思ってプレーの記録をするアプリとかを探そうと思ったのだが、Ipadでのみ使えるアプリ1つを除いて、実用的そうなものはなかった。

 

結構、作ろうと思えば簡単にできるはずなのにだ。

そういうアプリは、現在クラブチームなどと組んで開発中だとのニュース記事もあった。

 

こういうのって、たぶん一番先に使いやすいものを思いつけば、それなりに収益につながったりもするんじゃないだろうか?

もうちょっと発展させて、ランニングアプリのように、SNSにして世界中のプレイヤーデータを集めて、クラスタリングしたり、プレイスタイルごとに特長や弱点を見つけ出したり。

 

まだバドミントンはまだ私に何かを、与えてくれるみたいだ。

 

明日もまた、筋肉痛だろうな。

 

世界一わかりやすいAI技術の解説(ニューラルネットワーク)

 

今日、職場で急にAIを活用して業務改善ができないか、という話が降ってきた。

はいはい、確かにAIってなんかかっこいいもんね。

ニューラルネットワークをはじめとしたAI技術って、根本的にはコンピュータ技術の急激な進歩によって可能になったものなんだよね。

でさー、フツーに業務をこなしてるだけで、イントラがキャパオーバー起こしてダウンしているような貧弱なサーバしか持たない職場で、そんなもの導入する余地があるんかな??

 

 

ちうことで、その辺のことを説明するための練習として、ここでAI技術の説明をしようと思う。

まずは、最近よく言う「ディープラーニング」に代表されるニューラルネットワークについて解説しようと思う。

 

ニューラルネットワークは、例えば明日の天気のような、

 

『何となくだいたいの予測はできそうだけど、いくらでも予想外の事態が起こりうるもの』

 

に対して効果を発揮する、予測技術だと認識している。


もうちょっとわかりやすい例を挙げてみると、

「どんな男がバレンタインチョコをたくさん手に入れることができるか」

みたいなのが、面白いかもしれない。

大体、あいつたくさんチョコもらいそうだなーってのはだいたい想像がつくけども、一見男前な奴が、女の子にはからきしもてなかったりもする。

 

そこで、とある高校1年生のクラスの男子が総集結して、もてる男とはいったいどういうやつなのか、ということを議論してみた。


まずは、クラスの男子20人全員に、バレンタインチョコを去年何個もらったかを聞き取り調査を行った。

そのあとに、もてる男に必要な条件をみんなで列挙してみた。

①顔
②身長
③筋力
④おしゃれさ
⑤肌のきれいさ
⑥運動神経
⑦学力
⑧優しさ
⑨ユーモア
⑩経済力

こんなものだろうか。

イメージ的にはこういう感じだ。

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これらの条件をもとに、またクラスの男子全員を、各項目10点満点として点数付けを行ってみて、バレンタインチョコをもらった数と比較してみた。

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そうすると、この点数の順位とチョコをもらった数の多さは、かならずしも一致しないということが分かった。

よくよく分析してみると、そのうち、③握力⑤肌のきれいさ⑥学力⑧優しさは、チョコの数に与える影響が小さい一方①顔②身長④おしゃれさはチョコの数への影響度が高いことが分かった。

そのため、再度各項目ごとに重みづけを行った。

具体的には影響が少ない項目は、点数を半分にし、影響が大きな項目は点数を倍にしてみた。

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この図において、太い線は点数を2倍に設定した要素であり、細い線は点数を半分にしていることを表す。

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すると、チョコをもらった数と、点数の順位はほぼ一致した。


これで、このクラスの男子は、チョコをたくさんもらうためにはどうすればいいのか、ということを説明することに成功したのである。

 

そして迎えた高校2年のバレンタインデー。

昨年度確立した理論に基づき、去年はチョコをもらえなかった男子も、必死にできる限りの努力をした。

ことしは、あいつにばかりチョコを持っていかれることはないはず…。

誰もがそう思った。


ところがどっこい、結局ふたを開けてみると、去年と同じようなメンバーがランキングに名を連ねた。

中にはランクを大きく伸ばしたやつもいたけども、同じように努力したはずの男子でも結果は散々だったものもいた。

理論に基づいて、それぞれが必死に努力したにも関わらずだ。


なぜだ…。なぜなんだ…。


なにか、見落としている要素があるはず。

チョコをもらえなかった男子は、また考えた。

 

昨年度のデータではもらえるチョコの個数の傾向をほぼ、完璧に予測することができたはずだったのに、今年のデータまで加えてみると、その予測は完璧でないことが分かった。

 

去年の分析は、データ数が少なかったせいで、たまたま完璧に予測ができていたように見えただけだったのだ。

 

クラスの男子は、反省した。

 

女心がそんな単純に予測可能なわけがなかったのだ。

 

そして、ある仮説に至った。


それはなにかというと、

チョコを何個もらえるか(≒いかにもてるか)ということは、最初に挙げた10個の基礎的な要素に直接比例しているのではなく、それぞれの要素が複合的に絡み合って生まれる別の要素に直接的に関係しているのではないか?

ということだ。


具体的にどういことかというと

A.たくましさ・・・ ②身長③筋力といったものの影響が大きい要素
B.清潔感  ・・・ ①顔④おしゃれさ⑤肌のきれいさといったものの影響が大きい要素
C.信頼性  ・・・ ③筋力⑦学力⑧優しさ⑩経済力といったものの影響が大きい要素
D.名声   ・・・ ①顔④おしゃれさ⑥運動神経⑨ユーモア⑩経済力といったもの影響が大きい要素
E.ギャップ ・・・ 例えば、③筋力と⑦学力のような相反する要素を持っていること

これら5つの要素が、本質的にもてる男を構成しているのではないかということだ。

 

図にしてみると、こんな感じだろうか?

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これらをもとに、もう一度、男子の点数をつけなおしてみた。

しかし、この作業は困難を極めた。

なにせ、A~Eの要素に、基本となる10個の要素がどう影響しているか、を調べた後

さらに、A~Eのどの要素が、チョコをもらえる個数に与える影響が大きいかを調べる必要があったからだ。

また、このクラスの男子20人分×2年分のデータだけでは、正解となる重みづけの組み合わせが複数存在することとなり、それらのうちどれが真の正解かを特定するためには、さらに他のクラスのデータまで追加して検証を行う必要があった。

 


そして、分析を行うこと10か月。ついに、学年の男子のデータすべてを費やしてなんとか翌年のバレンタインデーまでに、「もてる男理論改」を打ち立てることに成功したのだ。

果たして高校最後のバレンタインデー、結果はどうなったことだろうか?

 

それは皆さんの想像にお任せしたい。


だって、そもそもニューラルネットワークの仕組みについて説明したかっただけだからだ。

 

AIに話を戻したい。

 

「どういう男がもてるか」や「明日の天気はどうか」という、一見簡単に見えて、そう一筋縄にいかない事柄について予測をするときには、基礎的な要素から構成される中間的な要素を設定することで、正確な予測が可能になるということである。

しかも、その中間的な要素は、多ければ多いほど、予測精度は高まるらしい、ということが近年の研究によって明らかにされてきた。


ディープラニングというのは、現代の顕著なコンピュータ技術の発展と、インターネット等の発達により半自動的に膨大な量の正解データを集めることができるようになった(いわゆるビッグデータ)ことによって、圧倒的多数の中間要素を多層に構成することが可能となったことで実現した技術なのだ。

例示した、「もてる、もてない」のケースように1つの中間要素で予測するだけなのであれば、もてたくて必死なだけの男子高校生にも理解可能かもしれないが、何層にも中間要素をおいた高度な予測モデルにおいては、もはやその中間要素が何を示しているのかを人間の脳では理解することができない。

ゆえに、ニューラルネットワークはしばしば「ブラックボックスモデル」と呼ばれる。

なんかわからんけど、うまくいく。

それが、ニューラルネットワークなのである。

 

さきほどの事例をもとに、どういうものであれば、ニューラルネットワークが適用できるのか考えてみたい。

 

ニューラルネットワークが適用可能な事例というのは、少なくとも「誰かが正解を教えることができる」必要性があるのである。

「もてる、もてない」問題に関しては、チョコレートの数という明確な正解があった。

その明確な正解のもとに、理論をより正確なものに近づけることができた。

だから、AIがいかに万能とはいえど、人間がAIに正解を教えることができない問題には、AIの活用が見込みづらいのである。


その辺が分かってないと、AIの使いどころを見誤る。

ほかの例でいうと、「人間が手書きで書いた文字をコンピュータに認識させること」とか「人間が声で発したことを、コンピュータに文字に起こさせる」とかは、人間が答えを繰り返しだれでも教えることができるので、確実にいつかAIで実現することができる。

 

外国語の翻訳も似たようなものである。

google翻訳、「翻訳は正確でしたか」みたいなことをフィードバックすることができる。

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これはただ、顧客満足度を調査しようとしているのではなく、ユーザーから半自動的に正解データを得ようとしているのである。


AIとはいえ、人間が正解を見つけることができないことは、実現できない。


これが、AIを利用する最低限知っておくべきことだと思う。

 

 

そうそう、ニューラルネットワークの「ニューラル」って「神経の」って意味らしい。

 

そう、人間の神経系の動きをモデル化してできたのが、ニューラルネットワークってわけ。

 

なんやそりゃって思うでしょ??

 

俺も最近twitterで流れてきて知ったんだけどね。

 

なんかあって、切れちゃった腕をもう一回つなぐ手術をするとき、お医者さんは元あった神経を元通りつなぐんじゃなくて、とにかく神経という神経を何でもいいからつなぐらしい。

 

もちろん、つないだ直後は、神経伝達があべこべになるから、例えば親指を曲げたつもりなのに、人差し指が曲がったりするらしい。

 

そこでリハビリですよ。

 

正しい動きはこうですよー、って繰り返し体に教えてやることで、なるほど、新しい久指の動きは、こうやって伝達すればいいんだ。

 

って体が覚えるらしい。

 

生き物ってすげー。

感想 ひろゆき著「働き方完全無双」

読んで一番最初に思ったことが、

 

「案外フツーやな」

 

ということです。

これは私としては、いい意味でこう述べているつもりです。

ひろゆきこと西村博之氏は、2chの創始者として特にネット界隈を中心として有名だが、その一般常識にとらわれない明晰な頭脳と、歯に衣着せぬ物言いでしばしば話題を呼ぶ人物だと私は認識しています。

 

当方、怠け者の人間故、働き方に関しては日ごろから思うことがあるのです。

ただし、所詮一つの仕事しかやったことのない若造、たぶん自分の考えには自分も気づかない無意識の偏りや、それまで考えもしなかった盲点があるに違いない。

 

そこで、私としては、そんな博之氏に、私がこれまで積み上げてきた持論の盲点を突いてくれることを期待してこの本を手に取ったところでした。

 

ところが、どっこいこの本を読んでみると、ところどころに博之氏らしい個人主義が垣間見られるものの、いずれの内容も至って突飛なものはなく、非常に誰にとっても役に立つような至って建設的な提言がなされていました。

 

実のところ思い起こしてみれば、目からウロコがでるような新しい視点というのは、その新しい視点に気が付いたからと言って、ごく一般的な意思の強さと体力の人間がそう簡単に実行に移すことができるものではないことが多いと思う。

 

割とありがちな例を出すと、転職の話がそうだ。

 

日本の終身雇用制度はもうほとんど崩壊しかかっているので、これからは個人が必要なスキルを身に着け、特定の企業に頼らないで生きることができるように転職しながらキャリアアップすべし、みたいなことは、終身雇用制度に染まりきったおっさんでも割と理解できるかもしれないが、実際に今の日本の社会でよし分かったとすぐに転職できる人は少ないだろう。

 

この本を読んでいて、そういうハードルが高い話はほとんどなかった。ごくごく平凡なサラリーマンでも取りかかれるような内容ばかりであった。

 

特に印象に残ったのが、人生の生産性を高めるために、睡眠の質や体調維持といったことについてもかなり言及されていたことだ。

 

まさか博之氏から、鼻炎の解消法を教えてもらえるなんて思いもしなかったものだ。

 

それくらい、なんというか「地道」なことの積み重ねという風にこの本を読んでいて感じた。

 

よくある、ベンチャー企業の社長みたいな人が、「若者よ海外へ出ろ」とか上から目線で言っているのに比べても、圧倒的にハードルが低く、怠け者の私としても受け入れやすい内容ばかりだった。

 

 

ちなみに、先の転職の話に関して、本書の中で博之氏は

 

転職しなければならない事態に備えて、年100万円貯金できるようにすること(貯金ができるような生活レベルをキープしておくこと)。十分な貯金があれば、いざというときに転職するためのハードルが低くなる。

 

というようなことを述べています。なんと、堅実なことか。

 

 

 

本著では、大きく①今後の日本の展望と、②その予測される未来の中で個人がどう生きていけばよいかという2つことを著述されています。

 

②のほうについては、↑でこれまで私が書き記してきたように、個人がこれから意識すべきことがライフハックのようにたくさん挙げられている。その内容は多岐多様であるため、もうこのくらいにしておきたい。

 

①の今後の日本の展望についてはざっくり私の言葉でまとめると以下の通り。

 

A 今後の日本は今のタコツボ状態を抜け出すことができないだろうということ

 

B そういう中で、生活のためイヤイヤ働いている人が、優秀でバリバリ働きたい人の邪魔をしないように、「ベーシックインカム」を導入すべきだということ

 

Bのベーシックインカムについては、ちきりん氏のブログがめちゃくちゃわかりやすいので、そちらをご参照のこと。

d.hatena.ne.jp

 

Aの日本はタコツボを抜け出せないということについては、

1 高齢化の進んだ日本では、高齢者の声が大きいため、年金や医療といった高齢者にとって必要な部分を切り崩せないこと(≒よってベーシックインカムの財源が捻出できない)

2 行き過ぎた規制等、「よくわからんもの」への恐怖などに由来する全体が損をする論理が跋扈しているおり、日本が成長するための選択肢をつぶしていること

3 これらに対して、これまで博之氏があった専門家はいずれも論理的な打開策を持たないこと

 

などから、基本的に日本は存続こそするだろうが、もう成長しないというのが博之氏の認識のようです。

 

確かに、日本の現状を嘆き、あーすればいい、こうすればいいと空想することは、もはや限りなく無駄に近く、それよりもまずはどうすれば個人が生き延びることができるかを考えるほうが、ずっと建設的のような気がする。

 

そのような日本の環境の中、特に不遇に立たされることになる若者が、どうずる賢くしぶとく生き延びるかということについて教えてくれる、若者の視点に立ったとてもやさしい本だと思いました。

 

 

 

※不思議なところが、こういう感じで日本の将来をほとんど見放しているようにも見える博之氏ですが、仲間内でどうやれば日本でベーシックインカムを導入できるのかについて、わざわざ試算をしてまで本気で議論をしていたりと、勘違いかもしれませんが、どこかで日本のことを思いやっているようにも感じました。とにかく、博之氏の「やさしさ」のようなものを感じた一冊でした。